狩猟(巷説U)
□《菖蒲の宴》
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それでも百介を精一杯もてなそうというのか宴の席には酒や魚の切り身や膾やらが色々と用意されていたのだ。
上座に座らされた百介は、自分の左右に座る立派な身形の、商家の大旦那と思しき男達に声を掛けられた。
「百介様、はじめてお目もじ致しますな」
立派な髭を持つえら張った顔の中年の男は、大きく口を開け閉めして、百介の顔をじぃっと見ている。
「これ蒼君や、百介様が怖がるじゃろうに。ワシは泥爺と呼ばれとるよ、よろしゅうにな」
傍らで、頭の禿げた土色の肌のお爺さんが、顎鬚を扱きのんびりと話しながらニコニコと笑っている。
「はい、こちらこそ。宴に呼んで下さいまして有難う御座います」
百介が酒を勧められるまま杯を受ける最中にも、招待客が次々とやってきて宴に混ざる。
「えぇ、蒲の親分さんから、団子を差し入れて頂きやーした」
「こちらは明神下の縄親分さんから、祝いの酒樽を」
「おおっ、こりゃ凄い」
「ネネ子の姉さは、来るかのう?」
「いやぁ権さの兄がじきに来るとよぅ」
あちらで手を叩き唄うもの、こちらではおどけた身振り手振りで踊り出すもの。
なんとも大勢の賑やかな宴会に、百介も楽しそうに笑みを浮かべて。
「楽しいですねぇ」
「喜んでもらえて、嬉しいでやーすな」
それから、どれだけ宴の席にいたのか、随分と酒を勧められた百介には、終わりの頃が全く記憶にない。
「百介様、ワシ等は江戸の水路を見張るモノでやーす。なんぞお困り事あらば、どうぞワシ等をお遣いくだされ」
「水神、龍神、淵や沼の主共。皆、百介様を見守っておりやーすでな」
ぼんやりとしている百介に、覚えててくれと優しい声がする。
有難い話だ。
船に乗せられ、合羽を脱いだ船頭の背中に、甲羅が見えた百介だが。
『これは、だいぶ酒に酔いましたか』
見間違えたか、と百介は酔いで眩む目を擦った。
腕一杯に菖蒲を抱えて、念仏長屋にやってきた百介は、したたかに酩酊していて又市を仰天させた。
「せ、先生ェ、どぅしやしたっ?」
「酒宴の席に招かれまして。些か酔いました」
普段ならば酔う姿を見せたくない、絡まれたくないと、酒の席は断ってばかりの百介だった筈だが。
又市は、しっとりと濡れたような百介の衣服や、泥に汚れた草履や足袋に目を止め、更に驚く。
『なんだ、こりゃあ』
船遊びをしてきたようだが、しかし、この泥臭さは何だろうか?
又市が首を傾げていると、おかしそうに百介が小さく笑い声を上げて。
「河童に誘われて、菖蒲の宴に行ってきました」
「はあ?」
「多分、鯉や亀、ナマズの精も宴にいたようです。楽しかったですよ」
「はあ…先生ェ、とにかく、着る物を脱いで乾かさにゃア」
「それなら、湯屋に行きましょう」
菖蒲湯ですよぅ。
百介はニッコリ笑って又市を誘った。
「誰のせいだっ誰のっ」
「オラは知らねぇぞ」
生駒屋の離れでは、猫又市と烏天狗の九郎が喚きあっていた。
『花菖蒲を見たい』
確かに百介は、そう言っていた。それは、猫又市も烏天狗も聞いている。
しかし、その百介の言葉は、離れに群れ棲む妖怪達全員の耳に入っていた。
裏庭の瓶池にいる小河童も、それを聞きつけて。
小河童は直ぐさま、大川の親分河童に『かくかくしかじか』と御注進。
花菖蒲ならば、河を熟知した我等が適任。しかも百介様を公然と宴に招ける、と河童一同奮起した。
河童が気合い入れれば、同じ川の妖怪達も思い思いに奮起する。
そして、あの大宴会となったのだ。
先を越された、と他の妖怪達が悔しがること。
しかし、問題は。
「一番、腹ァ立つのはあの御行だな」
「オラもそぅ思う」
百介様ァ、早く帰って下さいよぅ。
その頃。
「あははは〜、また貸し切りになっちゃいましたね〜」
「先生ェ、背を流しやすよ」
上機嫌の百介の背を、鼻を押さえながら赤い顔の又市も、機嫌良く手拭いで擦っていて。
これから先の、大人な付き合いは、またの機会に。
2008.05.05 -END-