狩猟(巷説)
□《藪知らず》
2ページ/2ページ
「切られたンか、おいっ」
おぎんと治平に合流した時、真っ先に二人が反応したのは、やはりと言うか何と言うか、百介さんの腕の傷だった。
ドス黒く変色してしまった片袖を見れば、百介さんの怪我の具合も知れよう。
だが、百介さんは直ぐ様『平気ですよ』を連発し、治平のとっつぁんやおぎんにも、心配無いと言うのだ。
此所に来るまで、散々奴と繰返した会話だからか、百介さんの声も平静そのものだ。
卸たての手拭いを竹筒の水で濡らし、百介さんが袖から慎重に腕を脱ぎ抜いた時。
白い二の腕から手首に至るまで、べとり、と赤黒くこびり付き、半分乾いた血糊に、おぎんは悲鳴を上げた。
奴も治平も、唖然としたまま。
顔をしかめた百介さんは、濡らした手拭いで腕の血を拭い始める。
「せっ先生ェっ」
「落ち着いて、おぎんさん。ほら…」
腕を顔の前に差し出され、息を飲んだおぎんは、やおら百介さんにしがみついた。
「先生ェ、傷がっ」
「はい、御座いませんよ」
「じゃあ、この血は?」
治平のとっつぁんの尤もな疑問に、百介さんは事も無げに『勿論、私のです』と応えた。
傷が一つもないのに、これだけ多くの血が流れ出る訳がねぇ。
「一体全体、こりゃあ?」
呻く奴に、百介さんは柔らかく笑み『禁足地を抜けた、通り賃ですよ』と言うのだ。
「又市さんに何事も無くて良かったです」
「え?」
「…声、聴きましたよね……」
あれは、私ではありません。
あれは、誘いの声。罠の声。
もしもあの時。
もしも聞こえた“声”に、応えたならば、振り返ったならば。
「……又市さんは、神隠しに遭っていたやも知れません」
「………」
息を飲む奴達に、百介さんは腕の血糊を拭き取りながら、深く息を吐いて。
「まさかに、ね。私もこぅなるとは思いませんでしたから」
又市さんが、『郷人の目に触れぬよう抜出すから』と言われて、丁度良い機会と“怪異”を利用しましたが。
「実際に、あるのですねぇ」
いやぁ、怖かったなァ。
百介さんはアッケラカンと宣うが、奴はそれ処ではなかった。
もし、無事に森を抜けれなかったら、二人してどうなっていたのか。
考えたくもねぇっ。
「先生ェっ!」
「念の為に榊の小枝を着物に刺しておいて、良かったですよね」
この程度で済みましたから。
二人が身に付けていた榊の小枝を地蔵の前に供えたのは、もしも“障りや祟り”が追いかけて来ても『お地蔵様に身替りを頼む為に』、あそこに供えて来たのだ、と。
そう微笑む百介さんの半裸の肩を抱き寄せ、奴は未だ拭いきれぬ血糊がこびりついたその腕に、口を寄せた。
「ま、又市さんっ」
『ぎゃあっ』とか『ぐはっ』とか、おぎんととっつぁんが何か叫んでいたが、ンな事ァ御構い無しに、奴は舌で百介さんの腕をねぶり血糊を綺麗に舐め拭う。
「あ、あのっ?」
又市さんっ、恥ずかしいのですが。
か細く訴えてくる声を無視して、奴はワザと舌を突き出し、レロンと百介さんの腕の内側を舐めてやる。
「……神だか妖怪だか知らねぇが、先生ェの血なら、一滴でも払いが惜しいやな」
「はあ…でも、傷も無いですから」
真っ赤に茹で上がった百介さんの顔をチロリと睨め上げて、今後は、こんな馬鹿な事をしでかさないよう、念入りに言い聞かしておこうと奴は決心した。
そりゃあ、かの森の主とやらは(神だか妖怪だか知らないが)さぞかし甘露な血を味わい、満足したことだろう。
しかしなぁ。
怪異を知るが故に、その怪異を一々百介さんが実体験されてたら、奴の気も休まらねぇのよ。
「ま〜た〜さ〜んっ」
おぎんが奴の首根っこを引っ張って百介さんから放そうとするまで、奴は存分に百介さんの肌を味わった訳だ。
2007.12.25 -END-