狩猟(巷説)

□《言霊》
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 只今、痴話喧嘩中。


「あんな、知らない人が大勢いる場所で、不用意に私の名を呼ぶなんてっ」
 百介からの猛然とした抗議に、又市は『は?』と飲み込み悪く聞き返した。
「先生を呼んだのがマズイんで?」
 疑問符を目一杯浮かべて首を捻る又市に、百介は溜息を付いた。
「又市さん…貴方は御自分の能力を判っていらっしゃいませんね」

 過去の貴方は、その口から騙る言霊ひとつで、大勢の人や世の中の道理すら、誑かしてみせましたものを。

 そうは言われても、又市は己の過去世を完全な形で持ってはいない。
 遠い江戸の過去を総て把握しているのは、百介だけ、なのだから。

「いや、ですが、何時も奴は先生を呼んで…」
「ですから、何もあんな場面で、私の名を、言霊を使わないで下さい、と言っているのです」
『は?』
 今度こそ、又市は目を白黒させて、口を開けたまま固まった。
「……もしや、又市さん…何も考えずに言霊を遣われた、と?」
 百介の声にも反応が遅れる又市。
「酷いっ、又市さん。私はあの場面で呼ばれて、本当に心臓が止まりそうになりましたのに」

 あの時、貴方は閨で二人だけの時のように、『百介さん』と、私を呼ぶから……私はもぅっ、立っていられなくなる程でしたのにっ。

 泣き出しそうに顔を赤らめる百介を、我に返った又市が懸命に宥めるが。
「いや、言霊を使ったと言われても」
 奴には何が何やら、サッパリ判りやせんが。
 又市の悲鳴混じりの言葉に、我に返った百介は、顎に手を充てて思案気に視線を揺らせた。
「又市さん、物の名を呼ぶことが、呪と同じなのはご存知ですか。人の名は、現代では呪だと気付きもされずに使われますが、昔は真の名と区別して呼ばれていたそうですよ」
 又市さん程では御座居ませんが、私とて、多少は使えますよ。
 そう言った百介は、『やってみましょうか』と又市に持ち掛けた。



 楽し気な顔で。
 寂しい顔で。
 甘えて、怒って、拗ねてみせて。
 百介は、表情も声の質も変えて、又市を呼ぶ。
「又市さん…又市さん…」
 何度も、繰り返して。
 笑った顔で。
 泣きそうな顔で。
 又市の名を繰り返す。

 そうして又市は、くるくると変わる百介の表情を見詰めながら、己の名を呼ばれ続けて。
 百介と巡り会ってから、二人で過ごしてきた様々な場面を次々と思い返していた。
『あ、あの時は先生、こんな顔を…そぅいや、こんな顔もされたなァ…何時だっけな』

 そして。
 一通り呼び掛けた百介は、一呼吸をおいてから。
 又市からスッと視線を外して、あらぬ方を見詰めた百介。
 その横顔を仮面のように、無表情にしたまま、発した。

 一言を。

「――小股潜り」

 決して、大きくも、聞き取れない程の小声でも無かった、その一言は。
 放たれた矢のように、真っ直ぐ又市の意識を貫いた。
 ガバッ、と。
 立ち上がろうとした又市は、驚愕の表情のまま、ヘタリと後ろ手に尻餅を付いた。
 心臓が一拍分は止まった、とドッと流れる冷や汗を拭うことも忘れ、呆然と百介を見上げる又市。

「又市さん…お判りになりましたか?」
 又市さんが私になさったことは、つまり、こぅいぅこと、なのですよ。

 百介は、困ったように笑みを浮かべ、又市に手を差し出した。
「こいつァ…参ったねェ…」
 己の真の名を、心底大好きな唯一の人から、意思を込めて呼ばれる。
 その意味を。
 他の誰でもない。名を呼んだのが又市だからこそ、百介があれだけ『不用心だ』と抗議した訳だ。
 なるほど。
 確かに、これは呪だ。
 又市と百介だけが、互いに対して使える、強烈な呪だ。

「以後、気をつけやすよ」
「あの、二人だけの時は、別に構いませんからね」
 又市は、微かに震えの残る右手を上げ、無理に苦笑を浮かべながら、百介の手に掴まった。




2010.01.26 -END-
2010.02.14 再





 おまけ…
「いや、先生ェが相方を努めてくれるンだったら、奴ァ“腹乗死”の方を…。なぁ、『百介さん』」
「だッ、だから又市さん、そんな風に“言霊”を使用わないで下さいッ!!」
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