たえとの短編集☆

□ティア・ドロップス☆
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 久しぶりの連休がやってきた。

朝から何をしようかと迷っていたら、ふと風呂場に置いてあるココナッツ・シャンプーの香りが風に乗り漂ってきて、突然この休暇を海外に行って過ごそう、と決めた。

仕事柄、平日休暇だったので、飛行機の席も当日券がすぐにとれた。

     ☆☆☆

 離陸してほどなく、スチュワーデスさんが周って来た。なにか飲み物を持ってきたらしい。

紙コップの中身は、真っ白の冷たいココナッツ・ミルク入りタピオカ。私は受け取ると、よく味わって飲んだ。

口の中にふわっと広がるこの感覚。
この独特な強いクセのある甘ったるさが、以前は苦手だった。ちょっと香りをかぐだけで、なんだか変にむせそうになるからだ。

でも、最近は疲れた身体が求めているのか、敢えてその芳香をかぎにいってしまう。後でむせると分かっていても。

それでも、飲み始めはやっぱり気分が悪くなって、後悔をしていたのだが、だんだんとそれも少なくなってきた。
今ではチョコレート菓子や飴玉を食べるよりも、もっと強い甘さが得られるので、かえってとても満足してしまう。

これではまるで、一種の中毒みたいだ。

     ☆☆☆

 ホテルは、海岸に面した綺麗なところだった。

 もう日本は肌寒くなってきたけれど、こちらは一年中亜熱帯気候だから、ずっと常夏気分で居られて、休暇を過ごすのには最適だ。
人は自分の生まれた季節の気候が一番身体に合っているらしい。


窓からは、白い砂浜に青とエメラルドの海が続いているのが一望できる。
夏休みはものすごく混雑する所だったが、もうこの季節、特にこの時間帯になると、ほとんど人は誰も居ない。

ホテルにじっとしていても仕方がないので、持参した水着にローブを羽織って外に出た。


     ☆☆☆


 シュノーケルを借りて、しばらく潜ったり波間に浮かんだりしていたが、それも疲れて砂浜に戻る。

大きな椰子の木陰に、椅子がひとつ置いてあるところで、
一息入れていた、ちょうどその時。


「マッサージ、マッサージ、イカガデスカ。」

 見上げると、小さなしわくちゃの老婆が一人、微笑んでいる。
片言の日本語で話しかけて来ていた。首にかけた大きな花輪が、風に揺れている。


 泳ぎつかれていたので、とくに警戒もせずに、それじゃお願いしますと言うと、彼女は腰に下げていた茣蓙(ござ)をその場に敷く。

「ココ、ココ。」

と指差すので、促すままに身体を預けた。

 さっきから太陽が雲に隠れていて、うす寒いくらいだった。
彼女の手の温もりと地面の砂からの熱が、じんわりと身体に染みて心地良く、しばらく夢見心地になっていた。


「オワリ、オワリ、オキャクサン。」


 気がつくと、彼女が私の体を揺すりながら、そう言った。

あらもうオワリなの、と辺りを見まわすと、もう日が暮れかけていて、
空がほんのり鴇(トキ)色に変わっていた。


彼女がなにかを手の上に載せて、すっと私に差し出してきた。
そこには、白くて半透明のビー玉のようなものがキラリと光っていた。

なにこれ?と視線で話しかけると、彼女は嬉しそうにニッコリしてこう言った。


「アメダマ、ニンギョ、コオリ、ナミダ。タベル、アナタ、アゲル。」


「え、人魚?氷?涙?」

 私の戸惑う顔と、つい口からでた言葉に、彼女の顔はますます嬉しそうになる。なんだか妙だ。

それから私の手をとって、そのキラキラしたものを勝手に握らせ、
にこにこ顔で口を指差して、うんうんと頷いている。

食べろ、と言う事か。

それにしても、あまりに完全な球体。まるで小さなガラス玉みたいだったので、一瞬警戒した。
そのキラキラは、ココナッツの香りがほんのりとしたので、思いきって口に放り込んでみた。

ちょっと冷たくて、やっぱり薄いココナッツのような甘味。
フワリと口内に広がった。

 彼女の言ったニ、三の妙な単語のうちのコオリは、あぁ氷砂糖の事なのだと、すこし納得した。
ほおばりながら目でお礼をすると、彼女もちょっと会釈をした。

 でも、あとのニンギョとナミダが、どうしてもまだ気になってしかたがない。

 私のそんな解せない顔つきに気がついたのか、彼女は私のほっぺを指差し、次に砂浜のむこう側を指差して、
片言でこう語りかけてきた。


「ニンギョ、ナク。アッチ、ソレ、タクサン、オイシイ。」


そうして、私のローブの裾をしきりに引っ張った。
まるで、今から人魚が泣くから、一緒に見に行こう、とでも言うように。それも、とても強い力で。


「ハヤク、アッチ、イク、ニンギョ。」


     ☆☆☆

 海岸の裏側についた頃には、夕焼けの色鮮やかさも消えていた。
藤色に葡萄色、そして紺色のグラデーションになった空に、白い上弦の三日月がうっすらと見え始めていた。

 ある地点から、急に彼女が走る速度を緩めたので、私はあやうくぶつかりそうになってしまった。
なにか言おうとしたところ、同時に彼女が降り返って、しぃ、と指を口にあてている。どうやら静かにしていなければいけないらしい。

 それを確認すると、彼女はある岩棚まで、低姿勢を保って近づき、こちらに向かってすばやくオイデオイデ、をしている。

そういえば空気がどこか冷たすぎるし、さっきから耳につくキーンとした金属音のようなノイズも、どうやら耳鳴りではないみたいだ。
私は彼女を真似て、低姿勢で小走りにその岩陰へ近寄った。

     ☆☆☆      

 空がだんだん紺一色になってきた頃、それは突然に姿を現した。


 老婆が少しも目をはなさずにじっと見つめていたある地点の。
波と砂浜との間から、なにかが現れた。

はじめは見失いそうなほどにか細い、しなやかな両の腕が。そして、あきらかに大きな水掻きが指の間についた白い手。

それらがにゅうっと伸び、湿った砂地をぎゅっと掴んだ。


次に、胴体が浮かびあがった。
顔はびっしりと張り付いた髪の下で、よく見えない。
海面よりもまだ下に伸びているだろうその長い長い髪の色は、昆布やなんかの海藻に似た黒色だったが、
微かな月の銀光に当たる部分は、うっすらと緑色の艶を含んだ輝きを放っている。

その先に見えたのは、間違いなく煌く大きな魚類のしっぽ。


     ☆☆☆      


 私はしばらくぽかんとして放心状態だった。

この世にこんな生き物が存在していたなんて。

不思議で、怖くて、美しくて、
なぜか切なくて。

だから、老婆の動いた気配などには、全く気が付いていなかった。


     ☆☆☆    

 老婆は別になんでもないとでもいう風に、人魚の前までさっさと歩み寄っていった。

それに気付いた人魚のほうも、何故か逃げも隠れもしないで、じっと老婆のほうを見つめていた。

 そのうち、老婆は両手を人魚の方にむけ、何事かを呟いた。

すると、人魚の顔がぱっと明るくなって、キィ、キィ、というあの金属音のようなノイズを体のどこからか発した。
あれはきっと、鳴き声のようなものなのだろう。

 そうして、彼女は両腕を前に投げ出し、波打ち際から砂浜のほうへ、尾びれで器用に這いながら、
ひょこひょこと老婆の方へやって来た。

老婆はニコニコと微笑み、さぁ、抱いてあげようという風なしぐさをしながら、這いよってくる人魚から常に後退し続けた。
決して腕の伸びる範囲まで近づけさせようとはしなかった。

人魚のほうは必死で地面を這いながら、この老婆にすがりつこうとする。
だが、あともう少し、のところで老婆は無情に何度も何度も、後ろへさがっていく。

 私は、それを見ながらも、どうしてか自分のいる岩陰から体を動かすことができなかった。
自分が出て行けば、すべての出来事が消えてしまうような気がして。


 しばらく、その奇妙な追いかけっこは続いていた。
長いこと陸にあがって息が苦しくなってきたのか、人魚が喉をヒュウヒュウ、ゼイゼイと震わせ始めた。

瞳からはぼろぼろと多量の涙の大粒をこぼしており、まるで砂浜に、星のつぶてが散らばったようになっていた。
落ちた涙は白く固まり、溶けないで光る。


 それでも、人魚は海に帰らない。
いつまでも老婆にすがりつこうと砂浜を這いまわる。
しかし、とうとう諦めたのか、力が尽きたのか、ばったりと倒れて、
そのまま動かなくなってしまった。

 私はハッとして、背筋が凍っていくのを感じた。


 その時、老婆がまた何事かを呟いた。まったく発音が聞きとれぬ言葉だった。
人魚はそれに反応したけれど、体を動かすこともままならいような状態で、大きな尾ひれだけをバッタリと動かしたが、それきりだった。


 冷たい風が吹いた。すると老婆は人魚に近づき、軽く横腹を蹴った。もちろん人魚は動かない。
今度は、その長い長い髪をむんずと掴み上げ、人魚のとがった耳のあたりにじっと聞き耳を立てた。人魚の唇がわずかに動き、
喘ぎ声が漏れた。

老婆が、私の方を振り返った。
そして、不気味な笑顔で私にこう言った。

「マダ、イキテルヨ」

そう言うと、また人魚のほうに向き直る。
掴んでいた髪をばっと放すと、腰に下げた入れ物から、白い小さなオカリナを取り出した。
そして私のいる岩陰まで戻り、ニッコリと微笑むと、それを口にあてがって一気にピィイイイ、と鳴らした。


 真っ暗な夜に、オカリナの高音が響き渡った。    

 人魚はその音の大きさに反応して、ビクリと動いた。
 どうやら息をふき返したようだった。

そうして、むくりと起き上がると、波打ち際のあたりを見まわす。
老婆がいないのを知ると、一声キュウウンと鳴き、悲しそうに海へと帰っていった。


 冷たい海風が、また吹いた。



☆終わり☆
 

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