たえとの短編集☆
□月夜の幻想曲☆ Bar『Harf/Moon』シリーズ2
1ページ/4ページ
ぱちぱちと、泡の弾ける音がする。
しん、と静まりかえった真っ暗闇の店内で、カウンターの前にある大きな水槽だけが、ひと際輝いている。
その水質はソーダ水のような薄緑色で、たくさんの気泡があとからあとから立ち昇っている。
その中に浮かんでいる美しい生き物は。
緩やかに流れるウェーヴの、蒼い髪の人魚であった。
彼女はうっとりと目を閉じて、その見事な尾ヒレのあたりから、エラを通り抜け肌に吸い付くように上昇してくる細かな泡の感触に、その身を委ね漂っている。
カウンターには男が一人、水槽と背をむけて立ち、いつものようにグラスを白い布で拭いている。
黒髪で、左右の瞳の色が青と緑の、先の少し尖った耳を持つこの男は、この酒場『ハーフ・ムーン』の主人である。
ここは、居場所のない半人たち(半分人間ではあるが半分はそうでもないものたち)が集まるところなのだ。
しかし、今夜は閉店しているので、客がひとりもいない。
毎月に何度か、こうして閉店しなければならない理由があった。それは彼の愛する人魚の体質のためである。
遠い故郷の澄みきった湖から連れて来た彼女には、都会の科学物質だらけの水が体にあわないらしく。
いくら天然水と表示されている水だけを使っても、何週間か経つうちにはまた、体調を崩してしまうのだった。
もともとが限定された土地環境でしか生き延びることができない稀有な生物なので、こうして連れて来た事に後悔の念さえ持つこともあった。
だがそれでもいい、と微笑んで自分に全てを任せてくれたのは、まぎれもなく愛しい彼女自身だった。
今では、常連客のひとりである蜘蛛の巣婆さんという老いた魔女が処方してくれるうぐいす色の薬粉を、こうして満月の夜に水槽の水に一包溶かし、その中で一晩中休ませてやる。
すると、それだけでかなりの期間、体力がもつようになってきた。すこし顔がやつれたように見えてはいるが。
そして、翌朝には必ず多量の鱗が剥がれ落ちて、花弁のようにキラキラと水槽に浮く。
魔女は、代金にその鱗を所望するのだ。いつも店内で吸っている、あの紫色の水煙を放つ若返りの秘薬を作るために、人魚の鱗がどうしても必要であるらしい。
☆
「この水に浸かると、故郷の湖の匂いがするわ」
「そうなのか。たくさん(鱗が)剥がれているが、体のほうは大丈夫か」
「ええ、心配ないわ。むしろ古いのがとれて、サッパリするの」
「そういえば新しいのは色が綺麗だな」
「あら、そんなに見つめないで」
「これは失礼」
「昔は自然に剥がれては生え変わるものだったけど、ここ来てから体がどこか変わったみたいで……。
でも、蜘蛛の巣婆さまのお薬に浸かると、それが促進されているみたいなのよ。
それからしばらくとても気分がいいの。ほんとうに感謝しているわ」
「それはよかった。俺はあの婆さんのことを少し警戒していたのだが……」
「私には必要のなくなった古いものをあげれば済むことだし、そう悪くない取引だと思うわ」
「ああ、そうだな」
窓を開けると、ちょうど真上に満月があった。そっと夜風が二人の頬を撫でていった。
都会の薄明るい夜空に星はないが、月だけは昔の夜空と同じように、ハッキリと見える。