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姫山千代と匿名の話
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第一章 1


お前は誰だ?


「千代、千代―――・・・・・・」

 誰かが千代の名前を呼ぶ、息を吹けば今にも消えてしまいそうなか細い声。
 ゆっくりと目を開いた千代を包み込んでいたのは、深く暗い闇だった。目が慣れていないせいで、その闇はただただ暗くて恐ろしい。辺りを見渡した千代は真正面を向き、自分の斜め上にぼんやりと、白塗りの顔が浮かび上がっていることに気付いて息を呑んだ。
 艶のないざんばらの黒髪を押し退けて伸びた2本の角、上下に2本ずつ生え揃う鋭く尖った牙、金色の大きな目はぎろりと千代を睨みつけている。
(大丈夫、これは夢じゃ。私が見てる夢)
 恐怖におののき、自分の意志とは無関係なところでガチガチと歯が鳴った。夢だ夢だと頭の中で何度繰り返しても震えは止まらない。
 これは夢だ、暖かい布団に潜り込んだ自分が見る夢。目を覚ましたら祖父が心配そうな表情をして、千代の顔を覗き込んでいるだろう。

 物心つく前から、千代は何度も何度も何十回も何百回も、同じ夢を見続けていた。幼い頃はその夢を見るごとに泣きじゃくって飛び起きていたものだ、今も目を覚ましたら千代の両の目からは涙がこぼれている。

 夢だ、夢だから―――・・・・・・
 大丈夫、怖くない。

 そう思っていた千代の身体が、言いしれない寒気にぶるると震えた。右肩にそっと、鬼が手を置いたのだ。
 鬼の白い手は骨と血管が浮き出て心底薄気味悪い。指の1本1本は枯れ枝のようで、爪は黄色く変色し縦線が目立っていた。鬼はぎりりと、千代の肩に指を食い込ませる。
 青い血管が浮かび上がる枯れ果てた手がどうして、そんな力に耐えきれるのだろう?
 痛みを感じる以上に恐ろしくて、千代は必死になって夢だと頭の中で繰り返し、目を覚まそうとした。

 けれど目は開かない、これもわかっていた。いつも見るこの夢は、終わりが来るまで目を覚ますことができない。
「千代、千代――千代―――」
 鬼は、そう千代の名を呼ぶ。
 苦しいくらいに冷たい手とは裏腹に、何故だかその声には温もりが感じられた。肩に食い込む手の痛みと恐怖と冷たさに震える千代の芯をじんわりと暖め解く、愛おしい温もり。
 節くれが目立つ鬼の指が、ゆっくりと動き出した。
 鬼の手が千代の細い首筋をなぞる、冷たさが肌の上を這いずり回る。体中を流れる血がスゥッと凍り付きそうになるのを感じた、手は首筋を滑りあげて顎をこえ、千代の顔を撫で回す。
 おぞましさに吐き気がした、かさかさに渇ききった鬼の指先は千代の顔から潤いを奪い取っていくように撫で回し、最後に目元にたどり着く。
 まず、右目が指で覆われる。背後からもう一方の手が伸びてきて、千代の左目の上を覆う。


「       」


真っ暗だ、真っ暗――――・・・・・・
闇の中で鬼の声が響く、響く、響く―――・・・・・・
最後に鬼は、何と言ったのだろう?
何故名を呼ぶ?
何故、名を知っている?
どうして――――・・・・・・?


 こうしていつも、千代の夢は終わりを告げた。
 目を覚ました千代の頬にはいつも、何筋もの涙が流れている。千代はぎゅうっと、自分の胸元に提げられているお守りを握りしめた。耳の奥には鬼の声がこびりついている、身体は鬼の冷たい手を覚えている。幼いころから飽きるほどに見続けたその夢が持つ意味など、千代は知らずに生きてきた。



お前は誰だ?




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