ぜろ部屋

□あさなんです
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汚泥の沼に頭から足の先まで浸かり、至る所を蛭に食らいつかれているようなものだ。
ただし、その蛭は雁夜の全身――血管のように配置されている魔力回路の内部で蠢き、噛みついてその血肉を絶えず啜っている。

この苦痛と血膿の向こうに望むものがあると雁夜は確信を抱き、盲信している。だからこそ耐えられる。望んですらいた。

身に刻まれる苦しみが願いの秤を動かすその時、確かに『果て』は訪れるのだから。



はち.あさなんです



けれど、そんな彼の抱いた夢想は、贖罪は、復讐は、どうやら叶いそうになかった。
目覚めた雁夜は、まず楽に呼吸ができることに驚く。身体のあちこちに軋むような感覚はあるものの常に身体を蝕んでいた痛みは遠く、あまりにもささやかだ。


「え……?」


間抜けな声が漏れ、混乱の中、ようやく周囲を確かめる余裕が出てきた。
まだ生き残っている片方の眼球が映しているのは、丸い電灯。首を巡らせれば、柔らかな色のタイルにシャワーのコック、真横には空らしい浴槽。そうか、ここは。


「ふ、風呂場?」


普通の、そこらの一般家庭にありそうな平凡な浴室である。
どうやら、自分はそこに布団を敷いて寝かされていたらしい。しかも全裸だった。意味が分からない。

ようやく雁夜は思い出す。倉庫街での乱戦の後、自分に救急車を呼ぼうかと尋ねた存在がいたことを。確か拒否していたと思うのだが、意識も混濁気味だったせいか相手の顔すらよく思い出せない。
もし、病院を嫌がる自分を気の毒に思った誰かが、家に自分を運んでくれていたとしたら……どうして風呂場でしかも全裸なんだ。

追い詰められた小動物めいた動きで雁夜は上半身を『あっさりと』起こし、右を見て、左を見て、正面を見て――


「っう」


突如として湧き上がる嘔吐感に口元を押さえ、


「う、げぇえ……!」


喉奥にこみ上げるえずきに耐えられず、盛大に嘔吐した。


「げ、っぐ、ええ、うぇえええ――」


頭の隅で他人の布団に申し訳ない、とは考えたものの止まるワケがない。
血液の混じった胃液のような粘性の液体をたっぷりと吐き、吐瀉物に鼻がつきそうなほど身体を折って荒い呼吸を繰り返す。
生理的に浮いた涙目で敷き布団をよくよく見れば、あちこちに吐瀉物の跡のようなものが散見しており、風呂場の意味を理解する。

どれだけ運んでくれた人が善人だとしても、寝ゲロしまくる男を客間には置きたくない。自分だって嫌だ。布団は、病人を全裸でタイルに転がしておけなかったがための良心なのだろう。たぶん。


「っは、ぁ……」


口の端に垂れた涎を乱雑に拭い、新たな疑問が浮上する。

というのも、そのまま続くと思われた嘔吐感がまるで今のが最後だとでも言うようにそれきり、綺麗さっぱり消失してしまったのだ。
むしろ胸の凝りが丸ごと出てしまったように、すっきりとしている。


「???」


たった一晩の間に何があったのか、理解も何もできなかった。疑問が解消される気配すら。
いよいよ混乱の坩堝に陥った雁夜は遂に、布団を洗うべきか否かという至極どうでもいいことを考え始めた。ほぼ逃避である。

そこへ、控えめなノックの音が響いた。


「ッ!?」

「おはようございまーす。起きてますかー?」




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