ぜろ部屋
□これにて幕引き
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――ぞぶっ。
柔らかくて、湿った音がした。
貫かれた箇所から感じる灼熱と、想像を絶する苦痛以外はあっという間に遠くなった。
膝から力が抜けて、踏ん張ろうとしたけれどうまくいかなかった。板張りの廊下にバケツで水をぶちまけるような音がする。手足から温度が喪われていく。二度と戻ってこないのは、本能とも言うべき部分ですぐに悟った。指先からはすっかり力が抜けて、もう、自分の力でたった一本動かすことさえかなわないのだから。
ひしひしと足元を汚す自分の命に自らを横たえて、感じるのは息も出来ないほどに重い痛み。締め上げるような苦痛に声を出すことすらできない。頭から血が引いたのか、意識が靄でもかかったように白んでいく。心臓の音が、耳の奥で煩いくらいに反響する。僅かに痙攣する身体と、口の中に溢れかえる鉄の味が不快だった。
名前を呼ばれた気がした。とても必死なそれは、誰かの悲鳴のようだった。よく、聴こえない。
「…………う」
返事がしたかった。でも、舌は回らず声は出ず、言葉になんてなってくれなかった。けれど、それもひどく遠い。
落ちそうになる瞼を堪え、ほんの少し視線をずらすと、悲痛な表情だけが見えた。泣かないで欲しいな、と痛みに塗り潰されそうになる思考の片隅でそんな風に考えていた。
何かに引きずられるように、剥がされるように乖離していく。身体が冷たくなっていく。
そっか、もうおしまいなのだと、理解してしまった。
寂しいと思った。(お別れが)
辛いと思った。(痛みが)
哀しいと思った。(先にいくことを)
けれど、なんだかほっとしてしまった。
やんわりと、ひどく優しく残酷に、包み込むように訪れた闇の帳。落ちるように沈んでいく意識と共に、自らの記憶も朧に霞んでいく感覚。
大切な仲間。だいじなじかん。
駆けたアスファルトの感触や、楽しそうな声。一緒に見上げた星屑の腕。まんまるの月。昼の陽光の熱さと水の冷たさ。
過去の記憶。たのしかったじかん。
泣いて笑って喜んで怒って。繋いだ手のぬくもり。指先を伸ばして、触れたもの。
犯した罪。しんだひとのじかん。
影の呼吸。響く剣戟。鮮血を噴き出して玩具のように倒れる人間の放つ怨嗟。呪詛の言葉。血と腐敗の臭い。
侵した罰。ころしたひとにのこってたはずの、じかん
誰かの命を穿ち抜く瞬間、喜悦、悲哀、不快、虚無に喪失。暁闇に染まる屍土。
それら凡てが、虚空へと滲み消えてゆく。
何があっても、生き抜くことを誓った。決して自分で終わらせたりしないで、ちゃんと贖うからと、約束した。
誰にでもなく、自分の心と魂に。
けれど誓いはここで果たされて。
約束はここで契られた。
だったら持っていかなくても、いいのかな。
僅かに動いた指先で、そっとおなかに触れた。慈しむように。
身の内に孕んだ、還元も浄化もできそうにない禁忌の塊。
これで、ようやく叶うのだろうか。ほどけて、ぜんぶ消えてくれるのだろうか。それなら、とてもいい。
――ああ、くたびれた。
「…………あ、は」
自分の命の終幕を悟り、けれど少しだけ生まれた幸福感に、澪は口元をほろりと緩めた。
さよならは、いいたくなかった。
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