ぜろ部屋

□あさなんです
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若い、緊張感もまるでない呑気な声だった。
磨り硝子越しに見える影は小さく、声から察するに少女らしい。もし一般人だったら、と考えれば迂闊なことは言えない。


「え、う、その、君は……」

「おっ、起きてますねよしよし。じゃあ、お布団そのまま浴槽に放り込んで上から蓋して、そんでシャワー浴びちゃってくれます?石鹸とかも使っちゃっていいんで」


相手は雁夜の様子にまるで頓着してないのか、更に言葉を投げてくる。一方的に。


「外にタオルとー洗濯した服とーあと下着まとめて置いておきます。布団は後で回収しますから、そのまんまで大丈夫ですよ」


ごく自然で、久しく聞かなかった日常的な、親切の滲む言動に雁夜はどう反応するのが正解なのか皆目分からない。


「あ、ありがとう?」


だから、素直にお礼が言えた。


「いえいえ、ではごゆっくり〜」


適当な返事が聞こえ、ほどなく外でベリベリと何かを引っぺがすような変な音がする。例えるなら、目張りしたガムテープでも剥がすような……。
それからカチッと音が聞こえ、換気扇の駆動する鈍い音が響き始めた。あっという間に新鮮な空気が流入して吐瀉物の臭いが浚われていく。


「ん?」


それまで室内に充満していたらしい酸い臭いがなくなったことで、雁夜はようやく室内に漂っていた別の匂いに気がつくことができた。
あまり嗅いだことのない、じんわりと甘く、僅かに苦い、杜松にも似た香りだ。よくよく探してみると、ドアの隅に昔懐かしい蚊遣り豚が置いてあることに気付く。香りの元はあれらしい。
消臭剤というよりは芳香剤なのだろうか。なら蚊遣り豚というのはどういうセンスだ。

一から十まで謎ばかり。


「なんなんだ」


とはいえ全裸のままでは逃げ場がないし、仮に逃げることができても社会的に死ぬ。通報とかで。身体を洗いたいのも本当だ。

仕方なく、言われた通り布団を空の浴槽に入れて蓋を置き、コックを捻って口の中をゆすいで頭からシャワーを浴びる。
熱いお湯が全身を行き渡る感覚は単純に心地良く、雁夜はほんのひととき安息の時間を得ることができた。




*****





ほっこりぽかぽかになった雁夜は浴室を出ておっかなびっくり廊下を歩き、居間と思しき足を踏み入れた。
おおきな窓から差し込む朝陽。テレビから流れるニュースの雑音。なんの変哲もない、普通の家だ。魔術のまの字も感じ取れない。

さてこれは、本当にただの一般人が半死人状態な自分を見かねて助け船を出してくれたのかもしれない。


「えっと、シャワーありがとう。着替えとかも」

「どうも、タオルの位置分かりました?」


軽く頭を下げて、上げる。小さなテーブルに腰を下ろしてこちらを見上げているのは……


「ッお前!」


驚愕する。どうして今の今まで気付かなかったのか。雁夜は自分の致命的な失態を悟り、後悔が身を灼いた。浅薄を呪うしかない。
見た目はただの少女だ。初雪めいた髪の色と、桜にも似た瞳の色が奇妙といえばそうかもしれない。羽織った丹前から覗く体躯も華奢でいとけなく、戦いとは無縁のように見える――だが、雁夜は覚えている。忘れようはずがない。

使い魔を通じて覗き見ていたあの倉庫街に、この少女はいたではないか。

自分の打ち倒すべき聖杯戦争の参加者、ランサーのマスターとして!

どんな理由があろうと、眼前の相手が魔術師であり、聖杯戦争参加者である時点でそれは雁夜の怨敵に他ならない。




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