□world
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ベランダに置かれた細やかなプランターのパンジーが蕾をつけ始め、如実に春の訪れを感じ始めた頃、それは突然やってきた。

「仁王くん、私、国境なき医師団に加わろうと思ってるんです」

久しぶりに2人の休みが重なった。建築士と医師という何の接点もない職業を持つ俺たちだ。揃っての1日オフなんて、1ヶ月にあるかないか。そのくらいの貴重な日だったから、今日は映画を見に行って買い物をして少し高いイタリアンの店へ入った。
他愛ない話をして、パスタに舌鼓を打っていたら、柳生が急に。

「国境なき医師団、ご存知ですよね?」
「うん、知っとうけど」

使い慣れないナイフとフォークで皿の上に乗っている洒落たチキンを切り分ける。柳生はとうに食事から手を離し、完全に話をする体勢をとっていた。当然俺もそうするべきなのだろうけど、ここで手を止めて柳生と目を合わせるのは何だかとても怖かった。

「2年間、カンボジアで働くつもりです」
「…………、」
「あの、…」

次に柳生の口から出たのは俺の予想通りだったが、予想外でもあった。
2年間、カンボジア。
あまりにも非日常な会話に、脳が上手く着いていかないようだ。それが長いのかはたまた短いのか、カンボジアが遠いのかどうかすら判断出来なかった。

「うん、行ったらえぇよ」
「仁王くん、」

上手く笑えただろうか。顔を上げて精一杯笑ったつもりだったが、柳生は悲しそうな顔をしたから、きっとそれは失敗したのだろう。
自然と、焦燥も驚愕もなかった。
柳生比呂士。
善意の固まりのようなこの男が、世界の為に何かを成し遂げたがるのは安易に想像出来たことだ。いつか何か言いだすな、とは思ってはいたがまさかNGOに手を出すとは。隣に並んでいるつもりだった恋人は、いつの間にか俺を置いて先へ進んでいたようだ。

「賛成。柳生、応援しちょうけん」
「あの、仁王くん」

どんなに綺麗に笑ったつもりでも柳生はやはり悲しい表情をしていた。それ程俺は酷い顔をしているのだろうか。柳生の夢を邪魔することだけは絶対にしないと誓った筈なのに、どうしても心が付いていかない。

「応援したいのは本当よ。でもな、ちぃと。ちぃとばかし、寂しい」
「仁王くん、」
「ごめんな」

深く深く息を吐き出す。心臓のもっと奥のよく分からない所がきりきりと傷んでもうこれ以上は食べられない気がしたから、俺はここで漸くナイフを置いた。柳生へ視線をやると彼は彼で何かと葛藤しているようで、眉を下げたり上げたりしている。

「仁王くん、私は今日あなたに別れを告げるつもりでした」

世界で1番聞きたくない言葉が、世界で1番好きな人の口から発せられるというのはこんな気分なのか。
涙腺がつんとして、喉が引きつれた。











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