□かたりごと
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「ひろちゃん、」

そう呼び掛けた瞬間、柳生はぴたりと動きを止めてまるで操り人形のようにぎちぎちと不自然な動きで首をこちらに向けた。俺は何かしてしまったのだろうか。戯れに柳生のあだ名を考えようと、ひろくん、とか、ひろ、とか、様々な名前を次々口から出していただけなのに。ひろちゃん、と、そう音にした途端、柳生はまるで柳生でなくなってしまった。洞察力に長けている俺は、理由は分からずとも何かいけないことをやってしまったんだな、というのだけを漠然と感じて、慌てて話題を変えようとする。全く感情の読めない紫の瞳が、眼球の表面を微細動を繰り返していた。取り返しのつかないことを、してしまったのかもしれない。

「柳、生…?」
「……っうあ」

がくん、と。それまでモデルかと見紛うほど綺麗に立っていた柳生は、いきなり何か力が抜けたかのように膝から床へ崩れ落ちた。左手に抱えていた何冊ものハードカバーの本が重力に引き付けられ、そして不恰好にページを折り曲げながら墜落する。バサバサと騒々しく散ったため、隣の本棚にいた司書がこちらを覗き込んだが、俺は柳生を背に隠しながら曖昧に笑ってその干渉を回避した。
床に蹲った柳生は、自らを抱き締めながら荒く息をしている。小刻みに震えているのが分かったが、俺が発端になってしまった手前、手を差し伸べるのが憚られる(発作の理由は俺だ)。とにかく浅い呼吸を繰り返す柳生が過呼吸になった場合に備えて、昼に寄ったベーカリーの茶色い紙袋だけを机の上から取ってきた。低い姿勢で呻く柳生の隣にしゃがみ、しかし刺激しないように見守る。無惨にもくしゃくしゃに折り目がついてしまった本たちが、この状況の異常さを如実に示していると思った。本を愛する柳生は、本を汚したり破損したりすることを酷く嫌う。どんなことがあっても、本をぞんざいに扱うことは決してないのだ(以前雨の日に、本だけは濡れないように頑張りました、と笑いながら言ったずぶ濡れの柳生を俺は忘れない)。そんな柳生が本の存在を忘れるほど、何かに感情を支配されている。これまでの付き合いから判断しても柳生は何のアレルギーも持病も持っていないから、十中八九この発作も精神的なものだろう。

「にお、く、っ」
「うん、何したらえぇ?」
「そとに、つれて、っ。息が、」
ひゅうひゅうと、柳生の喉から悲痛な叫びが漏れる。俺はそれを聞くと、散らばった本もテーブルの上に置きっぱなしだった学校鞄も放っぽって図書館を出た。中学生とは言え、鍛えに鍛え抜かれたテニス部の男だ、同年代の男一人くらいなら背負って走ることくらい出来る。図書館にいる人はそう多くはなかったが、俺たちが目立ってしまうのは仕方ないことだった。人を背負いながら踵を踏み潰した革靴でリノリウムをバタバタと蹴って走る俺を見た司書さんは、今度こそ自らの携帯を開き、救急車を呼んだようだ。目の端でちらりと捉えた光景を忘れた振りをして、俺は図書館の自動ドアを潜り抜けた。











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