□MM
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仕事終わり。人身事故のため、大幅に遅れた電車に揺られながら僅かな頭痛を感じた。季節の変わり目には、昔から弱い。これはまた風邪を引いてしまったのかもしれないと、念のためにコンビニで風邪薬を購入して帰路につく。本来なら病院に行くべきなのだろうが、生憎、そんな時間も金も俺にはなかった。
木枯らしに吹かれながら、必死にコートの襟を立てる。帰宅途中の公園には、ホームレスの姿が幾人か見受けられ、さながらマイケル・ジャクソンの歌のような状況だと思った。俺には、彼らを救う力なんてありやしないんだ。まずは自分から変えなきゃならないんだけど、それすらも不可能で。ただ漫然と日々を消化し、時空の狭間に漂う。泣きたくなるほど、どこまでも孤独で哀れな人間。

「ただいま」

軋む階段を上った先にある自宅の鍵を開けながら、小さくそう声を掛ける。もちろん帰ってくる返事などない。それを承知で言葉を発したはずなのに、なぜか酷く心が寂しさにうち震えた。
きんと冷えた室温が怖くて、すぐさまファンヒーターを起動させる。こたつの電源もオンにして、温度が上がる間にキッチンへ向かった。ホットミルクを作ろうと思ったのだ。体調不良のせいか、食欲がまったくない。日頃から食は細い方だが、そういえば今日は朝から腹が減らなかった。今更のようにそのことに気が付いて、生への執着のなさが浮き彫りになる。自分のことながら、嘲笑したいほどに呆気ない。無機質で、無色で、透明で。限りなく、ゼロに近いのだから。
しかし、食欲がないからと言って、空きっ腹に薬を飲むわけにもいかない。少しでも何かを胃に入れておかないと、腹を壊しかねなかった。面倒なくらいメンテナンスが必要なこの燃費の悪い身体が、今も昔もうっとうしい。大人になったら強くなれると信じて鍛えた腹筋は、結局薄い皮が形式上内臓を隠しているだけだ。

「よし」

僅かな量だけ火にかけた牛乳は、すぐに暖まってくれた。適当なマグカップに注いで、こたつへと向かう。ちょうど、こたつも温度を上げている頃だ。
おざなりに足を突っ込むと、想像通りに心地好かった。寒さにすっかり萎縮した爪先の血流がよくなり、じんじんとむず痒くなる。冷えた手を擦り擦りしながら、テーブルの上に放置した風邪薬のパッケージに手をかける。市販の薬がそれほど効くとは思っていなかったが、気休めくらいにはなるだろう。紙製の外箱を適当に破って、その中に入っているアルミとプラスチックの容器から一つカプセルを取り出す。オレンジと白を基調としたその薬品が、風邪を治すだなんて。現代の医学ってのは本当に不思議だなあ、と。うだうだと意味のないことをばかりを考える思考の合間に、そう思った。

「早う治してくんしゃい。俺、明日誕生日なんじゃ」


祝ってくれる人なんて、誰もいないけど。
芝居じみた口調でカプセルに向かってそう言って、口に含もうとした、そのとき。
ぽわん!と。あまりにも間抜けな音がして、男が一人現れた。何もない空間から。

俺はもう声も出ないと言うか何と言うか。今までカプセルを持っていたはずの俺の左手を座布団にして、茶髪の眼鏡が笑っている。その状態で数十秒。ふっと何かが切れた気がして、俺は意識を失った。え。なにこれ。情報は皆無、風邪気味でショートしそうな脳みその片隅で、110番をしなければ、と、そう思った。






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