□きせき
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こりゃ天変地異だ。
売店に行って教室に戻ってみりゃ。あの仁王が牛乳をがぶがぶ飲んでいたりするのだから、俺はあんまりびっくりして、口をあんぐり開けたまま、両手いっぱいに抱えた菓子パンを思わず取り落としてしまった。それを見た仁王はへにゃっと笑って、愉快そうに喉を鳴らす。

「くは、ナイスリアクション」
「めっずらし、牛乳嫌いだったろぃ?」
「嫌いじゃねぇが、まあわざわざ飲みゃあせんかもな」
「じゃあ何で飲んでんの」

喫驚した表情はそのままに、俺は菓子パンを拾い集め、仁王の隣の席に座った。仁王が男らしくらっぱ飲みしている紙パックの牛乳は、1リットル入りのものだ。学校の売店には500ミリリットルのものしかないから、おそらくコンビニかどこかで買って持ち込んだのだろう。普段は適当な惣菜パンとペットボトルのお茶で昼食を済ましてしまう仁王に、どんな心境の変化があったのだろうか。毎日毎日「栄養バランスを考えた食事をしなさい」と説教を垂れていた仁王のパートナーの思いがついに通じたのかとも思ったが、それはありえないな、と、すぐに考えを改めた(柳生はここ1年くらい訴え続けていたのに、こんな突然に仁王が改心するわけがない)。

「いやほら、俺って可愛いじゃろう?」
「…………は?」
「じゃけぇ、もうちいっとばかし背え伸ばさんと、女の子に間違えられちまう」
「てめぇ167センチの俺に喧嘩売ってんのか」
「お前さん164じゃろ、盛んな」
「うるっせええ!!!!」

人が大人しく話を聞いてやってりゃ、この詐欺師はすうぐ図に乗りやがる。自称167センチで通ってんだから、そこは放っといてくれよ。てめぇどーせ余裕で170あんだからかまわねぇだろぃ。俺だってこの身長気にしてんだよ!いいけど、別にいいけどな!!
喚きながら仁王の首根っこをひっつかんでやると、仁王は一言「きゃん」と鳴いて、体を震わせて笑い始めた。どうやら首回りが相当敏感でくすぐったいらしいが、どれだけ身を捩られても仁王相手じゃただの戯れにしかならない。

「あーら仁王くん、女の子みたいな声出しちゃって!」
「…………、」

女の子に間違えられるから、そんなふざけたことを口にしていたから、少しからかってやろうと思っていただけなのに。大袈裟なほどにオネエ口調になって言ってやれば、それまで楽しそうに笑っていた仁王の背が戦慄した。きつく上がっていた口端はあっという間に下がって、暗く濁った瞳を隠すように俯く。そのまま彼は、ずるずると机に突っ伏してしまうのだった。側に置いてある牛乳を握ったままだった左手は、力なく床へ向かって垂れ下がる。

「悪ぃ!痛かったか?」
「んん、へーき」
「はぁ?おい仁王、何かあったのかよ、どしたんだよ。らしくねぇじゃん」
「………俺、女に見える?」

ぽつり、と、仁王の口の隅っこから漏れた言葉は、教室のざわめきに紛れて、すぐに消えた。けれども、俺の耳には、まるで直接吹き込まれたかのように、その温もりすらも持って伝わった。
仁王の真意が見えなかった。仁王が女に見えたことなんて一度もないし、そもそも何故この話題に仁王がこんなに敏感になっているかも、分からない。こんなとき、柳や幸村だったら仁王の言わんとすることを分かってやれるんだろうと思うと少し悔しいが、何かあったとき、仁王が相談してくるのは決まって俺だった。答えを見付けてやれずに歯痒い思いをするのだが、それでも、こうして俺が必要とされているのならば、俺の出来る範囲でしっかりと話を聞いてやろうと思った。

「見えねぇよ。同じ部にいて汚ねぇとこもいっぱい見たし、エロい話もしたし。友達だろぃ、当然じゃん」
「じゃあ俺は何で柳生に告白されたんかのぅ」
「え……、」
「勘違いさせてしまったんかのぅ、俺。親友じゃって、思ってたんじゃけど。」

うまくいかんね、人生って。
顔を上げた仁王は、困ったような、くしゃくしゃな笑顔になってみせた。それがあんまり痛そうで、俺は一気に柳生に対する怒りを覚える。
確かに、仁王の柳生に対する懐きようは、目を見張るものがあった。いくらテニス部やクラスの連中と仲がよいとは言え、仁王の友達付き合いは一線を越えない。言ってしまえば表面上の関わり合い、とすら言えるかもしれなかった。その一方、俺(や、一部の友人)相手には遠慮なく接する仁王だったが、柳生に向ける信頼は俺なんかの比じゃなかった。ごろごろと、まるで擬音が付きそうなくらい柳生に甘えて、引っ付いて。そういった、他の奴等には見せることの出来ない一面を、仁王は柳生に見せていたのだ。もちろん、あくまでも、友人の範疇で。

「んだよ、それ。あのやろう、そーゆう目でお前のこと見てたのかよ…。ふざけんな、裏切りだろ!待ってろ仁王、一発殴ってきてやる!」
「ちょ、丸井。柳生は悪くない。勘違いさせちまった俺が悪いんじゃ。もうちいっと俺の背が伸びて、筋肉がついたら、柳生もすぐ気付くけぇ。じゃけぇ、」

席を立とうとする俺の右手を掴んだ仁王の左手は、相変わらずに細い骨と皮で構成されていた。それでも、やっぱりみまごうことのない男の手で、それがより一層やるせなさを増幅させた。親友に裏切られて、男としてのプライドを踏みにじられて、それでもなお、何故仁王は柳生を庇うのだろうか。それだけの価値が柳生にはある?
俺が座席に座り直したのを確認して、仁王は頬杖をつぎながら窓の外を見やった。遠い遠い目をして、口元は憂いの表情をしている。

「柳生なんて庇うなよ…。」
「な、俺もそう思う。でも、あいつは悪くない」
「仁王!」
「俺が、ぜんぶぜんぶ悪いんじゃ。俺が初恋なんじゃって。初めて好きになったんが男で、初めて告白したんが男で、初めて失恋したんが男で。俺は、柳生が可哀想でしようがないんじゃよ」

そう言って静かに瞼を閉じた仁王に、俺はもう何も言えなくなってしまった。柳生に対して抱いていた怒りもどこかに行ってしまうくらい、自分の無力さを痛感した。誰が、何が、悪かったのだろうか。柳生も一生懸命に人を愛して、形は違うけれど、仁王も一生懸命に人を愛して。それらがすれ違ったからこそ、こうやって、悲しい現実に直面して。いけないことなど、間違ったことなど、本当な何もなかったはずなのに、結果だけ見てみれば、穴ばかりの本は読むことさえ出来やしない。

「出会っちゃ、いかんかったのかもなあ」

仁王の軽薄な笑みが、意味深に陰りながら網膜に焼き付く。心無い言葉なのに、それを否定するすべを俺は知らない。
ふと思い出したように牛乳を煽る仁王の左手は、見間違えでなく震えていた。過ぎた過去を後悔しているのか、来る未来に怯えているのか、それすらも俺には分からなかった。




end

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