□ロウライフ
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屋根があれば、それは建築物だ、と、工学部の彼はそう言ったけれど、法学部の俺からしてみてば、それは建築物ではなかった。建築物とは、屋根があり、天井があり、その土地にしっかりと定着をしているものだ。そうでなければ、途端にその物の存在は不安定なものになり、結局は取引全般をバランスのとれない自転車にしてしまう。強引に進まなければ、すぐに、どちらかへ傾いてしまう。
「はあ」
つまんねえの、と、工学部の彼は言う。彼の言う建築物は、その定義どうのこうのではなく、その建物の持つ意味や特性た地域の創生や街並みや、とにかく、自分の想定する建築物とはまったく異なる角度での、ものだ。あくまでも物で、しかし彼はそれを良しとしない。そんなところにまで建築物の意義だとか、そういうものを高めてしまうと、それはそれでなんだか違う気が、少なくとも俺はしてしまうのだけれど、別にだからと言って彼の考え方が変わることはないし、ましてや世界はかわらない。
そんな些細な、いわば戯れの議論だった。
学んだばかりの知識をひけらかしたかった、という気持ちがないではなかったな、と今ならば思う。小学生かよ、と自嘲気味に突っ込んだところで、彼がにやりとした。俺の心の中を、彼はいつもお見通しだ。
「楽しそうやの」
俺が専攻する学問は、極めて実務的だ。実務的で、なによりも曖昧で、人の想いだ。偉いだれかが「これはね、こうだよ」と無理に決め付けた解釈が、法の番人、国家の最高期間であり抑止力であるその建築物の中で罷り通る。そしてそれは、この国中に伝播する。意思なんてものはそもそも存在しない。ただ、そこに在り、上から降り注ぐものを享受し、頷き、体内に取り込んだ振りをしてやすやすと放り投げる。
放り投げたものは、床に散らばっている。浮きもせず、沈みもせず、工学部の彼が建築物の構成要素としない床に、 順繰りに、落ちる。
「無味乾燥だよ」
「あらそう」
彼はまったくもって興味がない様子だったが、それはこちらも同じだ。彼の書く図面は少しだけ好きだったりもするが、あとは別に。
医学部の秀才がひとり、どういうわけか彼に傾倒しているという話を聞いたことがあるが、やはり、医学部医学科に通うほどの頭脳の持ち主は頭がおかしいのだな、と、そのくらいの感想しか生まれなかった。彼らがふたりで住んでいるらしいのは、三鷹のデザイナーズマンションだ。画像付きでTwitterに晒されたそれを見たあの日は、まだ記憶にあたらしい。「拡散希望」という文章から始まったそのツイートの最後に添付された画像は、彼と彼にいかなる影響を与えたのだろう。建築物を触ることだけが好きなような顔をして、隣に並ぶ几帳面そうな男の手を引いて。この男は、けろりとして笑う。喫煙所コミュニティとはよく言うか、くだらないで済ますには少々もったいない。興味がある、と言えば、彼は怒るだろうか。
「雨、降りそじゃ。バイトねーしはよう家帰ろ」
彼は、俺が彼の家を知っていることを知っている。煉瓦造りの2階立て、蔦が張ったそれはあまりにも西東京の風合いで思わず笑ってしまったけれど。異様な見た目とは異なり案外オーソドックスが好きなんだな、と、案にそういった意味合いも含んで聞いたことがあるが、「ツレの趣味よ」と言われてしまえば、もう、閉口する他ない。あんなにも、建築物を愛するくせに、それよりも大事なものがあるらしい。とことん、恋愛とは不思議なものだ。
「次の授業は刑法だ」
「バキュン!」
あは、俺死刑?利き手の左手をピストルの形を作って俺の胸をつく。残念ながら、人をひとり殺したくらいでは日本の刑法は自殺を許してくれない。少なくとも3人はやらなければ、と思ったが、彼の興味はもうそこにはない。ヨーロッパへ行きたいと言い続けながらも彼が三鷹にとどまる理由。それは、まさに彼にとっての建築物が街並みで、生活で、命であるということ。建築物と、その中身を包含して、彼はその全てを愛していると高らかに謳った。











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