□ただいまおかえり
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突然だが少し話をしていいだろうか。
俺の名前はニオウマサハルで、だいたいのやつはニオウの部分で俺を識別する。丸井や切原が「ニオー」と発音するのに対し、柳生は「ニオウ」ときちんと呼ぶのだけれど、では果たしてこの場合の「ウ」の存在価値と意味と理由と、その他諸々、つまりその意義のような、あらゆる角度での「ウ」とは一体何なのだろうか。平仮名で書けば「におう」だし「におー」だし、片仮名で書けば「ニオウ」だし「ニオー」。ではローマ字ではどうしようか。俺の一家、というか一族だが、パスポート表記を「NIOH」に統一している。突然現れたHは確かに気にはなるが、問題はそこではない。Hは、あるべくしてあるのだ。英語圏には英語圏なりのルールがある。他所の言語を使うのだから、文句は言えない。嫌ならば使わなければいい話だ。と言っても、当然のようにローマ字表記を求められる現代においては、そのこだわりや意思の強さは、おそらく、弱点でしかない。話が少し逸れたが、俺が言いたいのは「NIOH」表記も「NIOU」表記も「NIO」表記だって成立しうるということの不合理性についてである。だって、おかしいではないか。漢字にすれば「仁王」、平仮名なら「におう」「におー」だし片仮名なら「ニオウ」「ニオー」。それが何故、少し日本の国境を越えたことで、「NIOH」と「NIOU」と「NIO」になるのだ。俺が、急に増える。増えて、違う人になる。赤也や丸井の呼ぶ俺は前者で、柳生の呼ぶ俺は後者。「二オー」と「ニオウ」。

「ニオウ マサハル くん ?」

覚えたての日本語のように柳生はそう言った。まるで初めて咀嚼するもののように、慎重に、ゆったりと、そう口にする。そんなに怖がらなくとも、俺は口の中で暴れたりなんてしないのに。

「ヤギュー ヒロシ さん」

「柳生」で「やぎゅう」で、「やぎゅー」で「YAGYU」。そんな、柳生比呂士さん。

「俺もおまんも、う がよく家出するのう」
「あなたが家出させてるんでしょう」

柳生の「う」は俺が家出させて、俺の「う」は柳生が連れてくる。ふたりともの俺を、柳生はまとめて、元に戻す。さも昔からそうであったように、ぴったり、そこへ、還る。

さて、俺はどちらの仁王雅治になろうか。







end

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