OR

□何も欲しいものなどない
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ちらりと左手首の腕時計を見ると、生徒会室に来てから既に1時間が経過していた。持参した恋愛小説のお陰で手持ち無沙汰にならずに済んだ為、眠りに誘われることはなかったが、何もすることがなかったらなら10分かそこらで瞼を閉じてしまうに違いない。春眠暁を覚えず、今日は正にその言葉が指し示すままの気候である。開け放たれた窓からは時折風が吹き込み、カーテンを気紛れに揺らし、そして出ていった。正午を少し過ぎたかというこの時間帯、校舎の西側に面する生徒会室は、丁度校舎の陰になって日差しが直接差し込まない。春とは言えど日本の日差しは少々きついから、テニス以外に関してはインドア派な忍足にとって、生徒会室の配置は非常に好ましいものだった。
春の陽気にどうにも緩んでしまう気持ちを持て余しながら、半分程読み進めた小説にブックマーカーを挟み、側に置いておいた眼鏡を掛ける(読書をする時、眼鏡によって視界が狭まるのを忍足は嫌った)。部屋の中央に置かれた皮張りのソファの上で大きく伸びをすると、上等な皮で出来たそれはパリパリと擦れた音を出した。その音が気になったのか、窓際にある生徒会長用のデスクに座っている男が忍足を一瞥した。この部屋の主である生徒会長の跡部だ。失敗したな、と忍足は思う。小さな衣擦れの音が、どうやら跡部の集中力を切ってしまったらしい。


何もかもが終わり、何もかもが始まる、春。否応なしに移り変わる世間に、中学生である自分たちが巻き込まれない訳がなかった。学校生活において、全てが変化するこの時期、最も多忙を極めるのが生徒会執行部である。そしてその頂点に君臨する跡部景吾の執務の量といったらそれはもう、普通の人間がこなせる量を遥かに凌駕していると忍足は思う。その結果、跡部は連日生徒会室に缶詰め状態だ。部活が休みの今日を加味すると、跡部が部活に参加出来ていない状態がもう一週間も続いていた(自宅のコートで自主練はしているらしいが、それと部活は別だ)。部長がいない部活はやはりたるんでしまうし、跡部自身、相当なストレスに違いない。
いつもより瞳を厳しくしながらこちらを見据える跡部に、忍足は曖昧に苦笑を溢した。少しでも負担を軽減してやろうと、ここにやってきたというのに。物事に誠実すぎる恋人は、自らの仕事に関して部外者を一切寄せ付けようとしなかった。

「まだ終わらんのん?」
「もう少しだ」
「手伝おか?」
「要らねぇっつってんだろ。大人しく待っとけ」

にべもないとはこの事だ。先刻から跡部が延々目を通しているものは、生徒たちが書いたアンケート用紙だった。新学期の開始に伴い実施された、学園、生徒会、部活動など、生徒が学園生活を送る上で密接な関係にある、ありとあらゆることに関して是非で答える簡素なものである。アンケート用紙には、いくつかの質問に加え、下部には自由に意見を書く欄が印刷されている。生徒全員に、自らが氷帝学園の生徒であり、そして学園の運営に直接関わりを持っているということを意識させるため、跡部が進言して添えられたものだ。
アンケートの自由欄を埋めているのは全員ではなかったが、氷帝学園の総生徒数は約1700名にも上るため、未記入者を除いても意見の数は膨大である。その全てを読み切るのには、それ相応の手間暇が掛かるのも容易に判断出来ることだったが、跡部はその作業を誰にも手伝わせようとはしなかった。幾ら生徒会の役員や忍足が助っ人として名乗りを上げようとも、片手で軽くあしらうだけだ。「ここに何か書いたヤツは、俺に用件があるんだ。だから、俺が読んで然るべき、だろ」何よりも氷帝学園のことを考え生きる男は、そう言いながら帝王の顔で笑っていた。















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