□WIMPs
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私が恐る恐る少年に名前を尋ねると、彼は小さな声でぶっきら棒に"におうまさはる"とだけ答えた。そうして次に私が何か言う前に、彼はカーディガンを脱ぎ、ネクタイを上げ、ジャケットのボタンを閉め、スラックスを引き上げる。あれよあれよと云う間に模範的な立海スタイルになった彼は、"ベルトと髪は見逃しんしゃい"と、ただそれだけ言って足早にそこを離れていった。駆けるにおうまさはるの背中には大きめのテニスバッグが担がれており、ということは彼はテニス部なのだろう。はて、テニスは紳士のスポーツではなかったか、紳士は身なりを整えるべきでないのか、私が悠長に的外れな事を考えているうちに彼の姿は昇降口へ吸い込まれていった。
"ベルトと髪は見逃しんしゃい"
見逃せる訳がない。風紀委員として、人間として、見逃せる訳がないだろうに、私の右手は何故か違反者の名前リストに"におうまさはる"と書くことが出来なかった。強烈なインパクトを私に与えた少年に、酷く心を惹かれたのかもしれない。目の前ではまだ赤髪の少年が真田に説教を食らっており、私の中の正義感がちくりと痛んだ。
こうして、私とにおうまさはるとの出会いは、文字通り風の如く慌ただしくやってきたのだった。つまりこのとき初めて、彼の心の中に私専用の器が出来たということになる。勿論中身はすっからかんも良いところであるのだが。


その後、私の中で"におうまさはる"が"仁王雅治"になるのに、然程時間は掛からなかった。彼を知れば知る程、益々興味が湧いてくるのだ。結果、私は少しずつ少しずつ仁王くんの中にある入れ物に液体を注ぐことになる。校内で、グラウンドで、会うたびに挨拶をしたり声を掛けたり。何も知らない生徒から見たら(自分で言うのも何だが)優等生が不良を注意しているだけのように見えただろうし、私も初めはそのつもりだった(後々考えてみれば、仁王の髪とベルトを見逃した罪を、仁王を更正させることで贖おうとしていたのかもしれない。こういう時自らの正義感に虚無を感じて、反吐が出そうになる)。
しかし私が仁王くんに構う動機を変えたのは、他でもない仁王くん本人の私に対する態度の変化であった。初めの頃は無視、良くて気の無い返事だったのが、驚くことに、根気良く話し掛ける内に彼は己のことを話すようになる。私が彼にいっとう優しくすれば、彼は不器用にだが、いっとう優しく笑うようになったのだ。
それはある種の革命だった。ミステリー好きの私は、仁王くんを解き明かすことに関しては毎日ぐりんぐりんと頭を働かせていたのだが、漸くそこで仁王くんの中の入れ物の存在に気が付いたのだった。そのときの私の脳内といったらもう、それはそれはアドレナリンが溢れんばかりに発散されており、さながらナポレオンの凱旋パレードが開催されているかのような盛り上がり方であったに違いない。一つを解き明かしてみたら、もう一つ仕掛けが出て来たのだ。興奮しない訳がない、寧ろレベルの一つ上がった謎の到来は、クリスマスに出る七面鳥の丸焼きより魅力的に決まっているじゃないか。凝り性の私は、仁王雅治という謎解きにすっかり魅入られてしまったのである。そうして更に私は、仁王くんを暴くことに夢中になるのだった。


話し掛ける一方だった私だが、その内に仁王くんからも会話を下さるようになった。もうこの頃、彼の中の入れ物は半分程満たされていたのだろう。しかし何と悲しいことか、彼の情の排出源は、まさにその入れ物に注がれた液体であったのだ。摩訶不思議なことに、彼は私が与えた優しさを練り直して私に与えているようだった。逆に捉えれば私が何も与えなければ当然のように彼からは何も返ってこないということ。私は、微かな絶望を感じた。しかしそれ以上に、入れ物を満杯にしようとムキになっている自分に気付いていたのもまた事実(こんなこと、初めてだ)。どんなに仁王くんが情を発しても、入れ物には常にたっぷりと液体が注がれているようにと、私はそのくらい彼に愛情を与えようと、幼い心に強く思った。












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