□かたりごと
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何とも有難いことに図書館は市が運営する公園の内部に位置していたので、図書館のすぐ前に芝生の生い茂る広場があった。水飲み場や涼しい木陰があるので、病人を看病するには余計に都合が良い。駆け足でそこへ向かった俺は、芝生に一歩踏み込んだ途端アスファルトとは違った、柔らかい土の感触に足を取られ、前へつんのめる。反射神経は良い方だと自負していたが、背中に柳生を抱えているために両手が使えず、結局顔面からダイブすることになってしまった。顔は背けて鼻は守ったが、左の頬から肩口を強かに打ち付けたようで、がつんと鋭い衝撃を受ける。次いで時差をつけながら柳生が重力に引っ張られたものだから、俺は起こしかけた体をもう一度芝生に擦り付けることになった。

「にお、く、ごめっ、なさ…、」

背後で柳生が呻く。喉が引きつれて上手く話せないようだった。俺は急いで柳生を背から降ろすと、彼の上半身を抱き込んで優しく背中全体を撫でるようにした。それしか、出来なかった。左の頬は相変わらずじんじんと低い痛みを伝えて熱を持っているし、今日のために誂えた白のジャケットも芝生の緑に染められてしまったが、一番俺の心を重くさせているのは、柳生の苦し気な表情だ。段々と元の調子に戻りつつある柳生の呼吸を左手に感じながら、俺は自分の無力さに泣きたくなった。多分泣きたいのは柳生の方なのに、俺は泣きたくてたまらなかった。















救急車が来たのは、それからすぐ後だった。変わらぬ姿勢で柳生を抱いていた俺に、司書さんやら救命士さんやらが慌てて駆け寄ってくる。真っ白い担架もすぐに持ってこられ、救命士さんの力を借りて俺はその上へ柳生を移動させた。縋るように掴んでいた俺のジャケットを、柳生は最後まで離さない。一緒に救急車に乗るかと問われたが、俺はそれを断った。

「鞄とか、そのままなんです。あとで行くので、病院を教えてもらえませんか」

完璧な標準語でそう言うと、担架の上の柳生は薄く目を開いて片方の口端を小さく吊り上げた(気が付いたのは俺だけだろう)。そういえば柳生に成り切るとき以外に標準語を喋ってみせたのは初めてかもしれない。すぐに目を伏せ気だるそうに力を抜いた柳生だったが、先程の様子ならきっと大丈夫だろう。柳生はそんな柔な奴ではないはすだ。今まで心配できりきり痛んでいた心は、少しだけ元気を取り戻した。
救命士さんが柳生の乗った担架を救急車へ運び込む。俺はそれをきちんと確認してから図書館へ戻ることにした。まず荷物を纏めて、柳生の家へは多分病院が連絡してくれるだろうし、それから、それから。頭の中でこれからやるべきことを考える。大変なことになってしまった。
と、かぶりを振った時、隣に揺れる亜麻色を視界に捉えた。

「あ、救急車ありがとうございました」
「あっ、ううん、大丈夫みたいね、良かったわ、本当、びっくりしちゃって、あたし、そう、うん、」

亜麻色の髪の毛を軽く巻いた若い司書さんは、よく喋る人だった。俺より幾分低い位置で頭が揺れるのが、何だか不思議な気がする。彼女がいなくなってから、つまり柳生と付き合いだしてから、女子と2人で話す機会なんてまるでなかったからだ。

「あなた、素敵よ。あんなに、お友達のために頑張れるひとだもの、ふふ、あたしびっくりしちゃった、仲良しなのね。彼も大丈夫に決まってるわ、うん、あたし分かるの、ね。安心して、」

本当によく話す人だと思った。嫌味にならないソプラノは、さらさらと次々に言葉を生み出す。俺が話さない分、彼女が全部ぶちまけてくれているようで心地好いとさえ感じた。
嗚呼、残念ながら年若い彼女は俺にとって恋愛対象にはなりそうにない。そうだ、この安心感は、母親のそれだ。宥めるように優しく背を擦られて、また泣きたくなった。涙を堪えるために力を込めたら顔がぐしゃくしゃになって、自然俯いてしまう。

「あらまぁ、仕方ないわね。ほら、ハンカチ、早く準備しなきゃ。病院行くんでしょ?タクシー呼ぶわね、良いのよ、ね。男前が台無しよ、ほら、がんばんなさい」

俺は俯いたまま、ただ頷くしか出来なかった。今考えてみれば司書さんが救急車を呼んでくれていなかったら、柳生はどうなっていたか分からなかった。外に連れ出すという俺の行為は一時的なものでしかなかったのだ。あまりに短絡的で、幼い。動揺ゆえの行動だったが、それが言い訳になるということでは決してない。自らの無力さが、悔しくて仕方なかった。











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