□白痴美
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温い。温すぎて茹ってしまいそうだ。酷く矛盾した感情を抱きながら、私はただ輪郭を確かめるように仁王くんを抱き締める。腕の中に無理矢理閉じ込めた体は、夏よりも随分筋肉が少なくなって頼りなかった。

「もうやめよ、柳生。こういうの、」

もう限界なんだよ、と、仁王くんは苦しげな声で告げる。同時に突き放された体は仁王くんの熱を失って急速に冷め始めた。脳内だけはぐるぐると吐き出しようのない温さが渦巻いているというのに、仁王くんの肩に僅かだけ触れた両手の指は、凍傷にでもなってしまいそうなくらい冷たい。あぁ、お願いだからそんな目で見ないで。

「親父さんに話さんと。俺とは何にもないです、って」

涙に濡れた仁王くんの両の目は、私のことを責めるようになぶる。再び胸に仁王くんを抱き込もうと伸ばした手は、握り返されることなく地に落ちてしまった。どうして、どうして。私は呆然とするしかできない。だって仁王くんは私のことを好きだし、私は仁王くんのことが好きだ。それで万事解決、何も思い悩むことはないではないか。

「何で、」
「潮時なんじゃよ」
「好きだ。仁王くん、ねぇ仁王くん大好きだ。仁王くん、好きだ好きだ好きだ仁王く、好きだ」
「好きなだけじゃいかん!」

何で。
私には分からない。どうして仁王くんは私を愛していながら拒絶の言葉を吐く。どこか諦めたように光を失った瞳は、ただガラス玉として私を映していた。顔面から表情が一切剥がれ落ちたようだ。冷たい、と表現するのが1番正しいだろう。仁王くんは、仁王くんの纏う空気は、私が気付くよりずっと前から氷点下だったのだ。
私はそれが怖くて堪らなくて、それを信じたくなくて、また仁王くんに抱擁を求める。これもペテンなんでしょう?ねぇ、仁王くん。いつみたいに笑ってくださいよ。嘘だよ、って。ねぇ。

「もう、忘れんと。俺たち、何もない、ただのパートナーぜよ」

仁王くんはそう言うと私が何か言う前に立ち上がり、部屋を出て行こうとした。そんなの、許さない。だって私たちは、愛を誓い合ったじゃないですか。この左手薬指に光る指輪は無意味になってしまうの?あの日の言葉は嘘になってしまうの?
私は、人を信じて生きてきた。誰1人疑うことなく、それこそ孟子の性善説を心の教本としてきたと言っても過言ではないくらいに。それなのに、私を裏切るのは、皮肉なことに、世界で唯一愛した人だった。

「仁王くん、行かないで。お願い、仁王くん」
「おまんに嘘は吐けんから、本当のこと言うけど。柳生んことまっこと好いとうよ」
「じゃあ、なんで、」
「好いとうけえ、好いとうから、一緒におったらいけん」

仁王くんは、それはもう清々し気に笑っていた。眉は少しだけ下がっていて唇も歪な形になっていたが、それ以外は何も変わらない。事態を冷静に受けとめ、もう前を見ている。私とは大違いだ。私はずっと仁王くんの保護者気取りをしていたけど、本当に大人だったのは仁王くんの方だったのかもしれない。
そんな仁王くんの表情を見ていたら、私はもう何も言えなくなった。縋ることも、突き放すことも、何も。私には、する資格がない。
「仁王くん、ごめんなさい。大好きです」

不意に視界が暗くなったかと思えば、仁王くんの唇が私のそれに触れる。最後の口付けはあまりに短すぎて、私の鈍り切った触覚では殆ど何も感じることは出来なかった。仁王くんはそのまま身を翻し、いつものように気だるい足取りで部屋のドアへ向かう。扉を開ける前に、こちらを一瞬振り返って。

「男に生まれてきて、すまん」















そのあと、私は自分が何をしたか全く覚えていない。とにかく仁王くんの表情が脳みそから離れなくて、ひたすら頭を掻き毟った。悪いのは、私。悪いのは、私。
仁王くんに出会ってしまった、恋をしてしまった、愛してしまった、私が悪いんだ。
結局私が選んだ道は、外部受験。それを父親に告げると、彼は安堵の息を洩らしたが、私はそれに心の底から苛立った。

「男に生まれてきて、ごめんなさい。お元気で」

それだけを書いたメールを送信しても、私はどうしても仁王くんの名前をアドレス帳から削除することが出来なかった。











私はまだ、仁王くんがいない世界に生きる意味を見出だせない。













end
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