OR

□何も欲しいものなどない
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「でい、たらぼっち、とは何だ」
「はあ?」

これ以上邪魔をしてはならないと、早々に恋愛小説を手に取りながらソファに座り直した忍足だったが、跡部の突拍子もない発言によって再び窓辺のデスクに視線を投げる。跡部にとっては真剣な発言だったかもしれないが、常識的に考えて今の質問はないだろう。それに発言自体はともかくとして、何だか発音が非常におかしかった。忍足は今だかつて、あんなにドイツ語風のでいたらぼっちを聞いたことがない。恐らくこれから聞くこともないだろうが。
いきなりどうしたのだろうか、視線だけで問うと、跡部は一度思いっきり眉間に皺を寄せたあと、苛立たしげに手に持ったプリントの束をデスクの上へ放った。今まで忍足が確認していたことが正しいなら、その束はアンケートのラスト50枚だ。

「ふざけて書いてやがる輩がいるんだよ」
「でいたらぼっち、て?」
「あぁ。他にも下品なジョークやら下手くそな絵、やらな」
「……そら、大変やなぁ」

忍足はソファに小説を置いて立ち上がると、跡部の座るデスクの側へ歩み寄る。自分に出来ることはせめて愚痴を聞いてやることぐらいだと思っていたから、漸く仕事が回ってきたと感じたのだ。
跡部が不機嫌を現わにしながらデスクの右側に積んであったプリントを漁る。一度目を通し終えたものだ。その中から何枚かを引き抜くと、側にやってきた忍足へと手渡す。忍足がプリントを確認すると、成る程そこには低俗なことばかりが書かれていた。下らない駄洒落や、跡部様ハートマークと題された似顔絵まである始末だ(これについては、忍足は少し似ていると思った)。ぱらぱらと捲っていくと様々なことが書かれているが、一枚、一際目を引く紙があった。

「でいたらぼっち、やんなぁ」
「だからそれは何だ。意味が分からねぇ」

跡部が腰を上げてプリントを持つ忍足の手元を覗き込む。そのプリントの自由欄には何か細長くどろどろとした絵が描かれ、でいたらぼっち、と添えられていた。十中八九ジブリシリーズを知らない跡部にとってその生物は未知なる存在であろうが、忍足からしてみれば非常に馴染みの深いキャラクターで、寧ろ不謹慎にもギャグセンスがあるとすら思った。生徒会のアンケート用紙にでいたらぼっち。こんなにシュールな図、そうそう見られたものではない。くすりと、思わず漏らしてしまった微笑に跡部は目ざとく反応し、乱暴に忍足の頭を叩く。それもそうだ、忍足にとってその絵がどれだけ面白かろうが、跡部からしてみれば執務妨害及び以外の何でもないのだから。

「堪忍、これおもろいわぁ」
「どこがだ?頭沸いてんじゃねぇのか」

そう吐き捨てた跡部は、いよいよ職務放棄とばかりにデスクから離れ、ソファに体を横たわらせた。勢い良く飛び込んだソファのスプリングは激しく軋み、その振動で忍足の大切な恋愛小説は床へ落ちる。ちらりと視線をやり確認したものの、跡部がそれを拾おうとすることはなかった。忍足が推測するに、今の跡部はそんな些細な行為ですら避けたいほど衰弱している。あれだけ長時間働き詰めだったのだから、一度気を抜いてしまえばぴんと張った緊張の糸が切れてしまうのは当然のことだ。

「………悪い」
「えぇよ、」

仰向けになって目を閉じ、右腕で光を遮った跡部は、完璧に寝る体勢に入った。左手でいかにも気だるそうにネクタイを緩めている。制服のままでそんなにだらしない格好をしたら、シャツやスラックスが皺になってしまうなぁ、と、忍足はそう思ったが口に出すことはしなかった。彼の家には専属のクリーニング屋もお手伝いさんもいるから、いちいちそんなことは気にしなくて良いのだ。制服のシャツのアイロン掛けまで自分でやっている忍足からしてみれば、羨ましいことこの上ない訳だが。












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