ヤマアラシ

□私の好きな人
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20時を回ったオフィス。
新規プロジェクトに携わる私には予期せぬ残業も慣れたもの。
残業代は出ないけどね!バカじゃねぇの!

そして隣のデスク。
身体をこちらに向けて座る彼女は頬杖をつきながらスラリと伸びた脚を組み替える。
本来この席には、もう人は居ないはずなんだけど(霊的なものじゃなくて、もう帰ってるはず的な意味で)。
30分ほど前に訪れた彼女をチラリ盗み見るように視線を寄越すと、あらまぁバッチリ眼鏡越しの目と目が合った。
ちなみに盗み見ようと思ったのは彼女の表情であって、断じてゆっくり組み替えられた脚じゃないよ断じて。

「…なんすか」
「なーにもー?」

ならその異様に間延びした、語尾がやけに上がる返事をやめませんか。

「いや、嘘ですよね?」
「べーつにー?」

ならそんな今にも右ストレートを繰り出せそうな程がっつり握り締めた拳を解いてもらえやしませんか。

「残業、必要でしたっけ?」
「会社的には必要じゃないねぇ」
「ですよね終わってましたもんね」
「でも個人的に必要なの」

きっと第三者から見たら、彼女が浮かべる笑顔に無条件でときめくんだろうけど。
でもしっかり見るとその目は笑ってないし、口角はただ上がってるだけ。

やだこわい。
美人が怒るとちょうこわい。
何で怒ってるのかわからないから余計こわい。

「先輩は」
「んー?」
「私の恋人、ですよね?」

だからそのおっかないオーラを引っ込めてくださいお願いします。

「あぁ、そーだねー」

少しの沈黙の後に肯定してくれた。
あ、ちょっとだけ目尻が下がった。
よしよし、少しだけ雰囲気が和らいで

「お昼まではねー」

くそぅ気のせいだった!幻だった!
何でそんなに怒ってるんですかって聞けたら聞くけど、聞いたら間違いなくあの右の拳が鳩尾目掛けて飛んでくる。

それは阻止せねば!
ボクササイズに心底ハマってしまった彼女の本気は受け止めたくない。
あぁ私のバカ!
なんで、ちょっと体を動かしたいなぁという彼女に、他の運動を勧めなかったんだ!
ヨガとかピラティスとか、もっと違う女子めいたものがあっただろう!

「あの」
「んー?」
「私は、先輩の恋人でいたいんです、けど」
「へぇ…………で?」

で?
っていやいやいやいや。
負けるな私っ、ここで折れたら多分ホントに愛想を尽かされる!
それは勘弁願いたい、だって本気で好きだし!
もうこれは内臓の奥深くに与えられるだろう痛みなんてかまってられない。
覚悟の上で勢いよく立ち上がると、彼女もゆっくり立ち上がって私と向き合った。

「だから、その」
「……」

私を見据えるその目は、意志の強い、私の大好きな目。
…こんな状況なのにドキドキしてるなんてバレたら、それこそ生きてらんないかも。
そんなことを考えて黙っていたら、彼女は眼鏡を外して静かに机に置いた。
殴る気満々ですねわかります。
だけどその前に。

「ごめん…何で怒ってるのか教えてよ、美和」

ぴくり、彼女の肩が震えた。
同時に私もビクリとする。


社内では名前で呼ばないこと、敬語で話すこと…周囲にバレないようにすること。


それが、付き合って初めての約束だった。
だけど状況が状況だし、他に人もいないし…今、考えうる手段がこれしかなかった。

何をしたか気付けない上に約束を破った私がすることはひとつ。
来るであろう衝撃に備えて目を瞑り、全身に力を込めた。
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