春よ来い

□3月1日金曜日
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3月1日 金曜日

3月に入って、少しずつ日中の寒さが和らいできた。日が暮れてからはまだ肌寒いけど、吐く息の白さは薄くなっている。
三日月が綺麗に浮かんだ夜、小さな鍋を抱えて駅前の洋食店を後にする。
目指すのは駅の通りにある、こぢんまりとした店舗。

《bar LEA LEA》

店先でカクテルを飲むカップルに会釈して横を通り、少し重めのドアを押すと、店内の暖かい空気が漏れてきた。
微かに聴こえるの音楽は、ウクレレの音色――ハワイアンだ。

ここが私、小菅 純(こすげ じゅん)が経営を任されている仕事場。
私の趣味がだだ漏れのこのバーも、それを好いてくれる人たちのお陰で隠れ家的な存在として営業させてもらって三年を迎える。
軌道に乗ってきたかなってやっと実感出来るようになってきた。
カウンター10席、二人がけのテーブル席が2席、それと店先の木製ベンチに簡易テーブルを備えたもの。
最後の席は、それぞれの季節が一番きれいな時を見ながらお酒を、と思って後から設置した。
今のような冬場は特に、イルミネーションが輝くクリスマス付近や年末年始、バレンタイン付近にかけて、常連・新規関わらず人気の席だったりする。

「ただいま、ごめんね優希さん。遅くなっちゃった」
「お帰りなさい店長。どうでしたか?」

カウンターの中から笑顔で尋ねてくるのは、アルバイトの満所 優希(まどころ ゆうき)さん。

「うん、何とかなりそう。あとコレ、差し入れだって。ビーフシチュー」

3月といえばホワイトデー。そんなイベントが2週間後に迫ってきた。
バレンタイン同様にお客様へのお菓子プレゼント製作を、近くの洋食店に協力をしてもらおうと伺ったら二つ返事で了承をもらえた。
しかも、残り物でごめんねとシチューまで頂いた。後で優希さんと分けよう。

「店長はあれこれ思い付くのに特化してますよね」

バレンタインの時は、チョコレートリキュールを使ったカクテルをサービスしてみた。
あと、数人のお客様にお願いされた、普段はあまりしない恋のお手伝いなんかも。
人それぞれに意味がある日を、一緒に楽しめたら最高だと思うから。

「イベント事には敏感でいたいから。ただお酒を提供するだけなら誰でも出来るし…やってて私が楽しいってのが大きいかな。優希さんには面倒かもしれないけどね」

そう言って、ボトルを磨く優希さんに笑いかけると、私もそういうイベント大好きなんで、と笑顔を返してくれた。敬語で話してくれてるけど、私より年上。
一癖あるオーナーの太鼓判をもらったアルバイトさんだ。

『店長にタメ口で話す部下がいたら、見る人によっては悪い取り方もするからダメです』

オーナーが最終面接で言おうと思っていたことを先に優希さんに言われて、即決で採用したそうだ。
私も第一印象はとても良かったし、直感的に合いそうだと思ったところもあって了承した。
間違いなかったなぁと心底思う。お客さんにも仲間にも恵まれて、仕事としては最高の状態。

「ホワイトデーかぁ…」
「優希さんは毎年大変そうだね、大人気だし」

困ったような照れ笑いをする優希さんは、それはそれは綺麗な、しかもカッコイイお姉さんで。優希さんファンのお客様もいるくらいだ。
バイトを掛け持ちしてて、今日もこの仕事の前に喫茶店で働いてきてたはず。出来ればここに腰を落ち着けて欲しいけど、無理矢理に引き止めてしまうのは気が引けた。
それに、この自由な優希さんだから皆惹かれるんだろうし。

「あ、一言メッセージでも添えてみる?」
「へ?」
「お返しに、手書きのカードも一緒にどうかなと」

お互いにたくさんの贈り物を頂いた一ヶ月前。そのお返しに物と言葉だけよりは、気持ちが目に見えると嬉しいんじゃないかな。そう言うと、優希さんも快く頷いてくれた。

「無理しなくていいからね?」
「大丈夫ですよ。みんなの反応が楽しみです」
「さて、今日は早仕舞いだからもう上がっていいよ?あとは表の二人だけだし」

優希さんは自分に翌日の用事が入ってない場合、最後まで手伝ってくれることがある。
どうして、と聞いたら、この店にいるのが好きだと言ってくれたのは素直に嬉しかったなぁ。
明日もシフトに入ってくれているし、早仕舞いの日くらい優希さんも早上がりしていいんだけど。

「やってきます。それに今日はひとつお願いがあって」
「お願い?」
「店長のお酒、飲みたいです」

それくらいのお願いならいくらでも。喜んでと伝えると、やったと小さくガッツポーズをする。
こういう仕草が、カッコイイけど可愛らしくて、モテるのもわかるなーって思う。ガラス越しにちらりと外の二人を見ると寄り添っていて、グラスももうすぐ空きそうだ。

「よし、じゃあ手の空いてる時にやれる事しときますか」

最近は時間があっという間に過ぎていくから驚いてしまう。それだけ充実してるってことなんだろうけど。
そんなことを思いながら、明日の仕込みやら、ホワイトデーの準備やらに手を付けることにした。
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