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□命の最後のひとしずく
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指と指の隙間から

零れ落ちる
命の最後のひとしずくの重みを

あなたは知っていた



『命の最後のひとしずく』


「おい…馬鹿な真似はやめろよ」
虎徹はその女性を目の前にして、フェイスガードを上げながらそう言った。
強い風が吹いている。
バーナビーは虎徹の後ろ姿を見ながら、軽い舌打ちをした。
(放っておけばいいのに)
現在の自分の心情を表現するのに最適な言葉はこれだった。
ヒーローTVの中継は既に終わっている。
従って、ここ……ビルの屋上から今にも飛び降りようとしている女を助けたところで、救助ポイントはつかない。
極力無駄な事はしたくない。
死にたい人間はさっさと死なせてやればいいのに、とバーナビーは思う。
バーナビーが立っている場所から、虎徹の表情は見えない。
見えないが、きっとふざけたアイパッチに覆われたあの目は、暑苦しく必死な色を浮かべているだろう。
(放っておけばいいのに)
フェンスの向こう側で風に舞う、彼女の長い黒髪。
それがほんの少しだけ虎徹の胸に複雑な感情を起こしているなど、バーナビーには知る由もない。
あと一歩、彼女が前に足を踏み出せば。
虎徹が言う『ビル的な建物』から彼女は一気に地面へと落下するだろう。
能力は先刻発動させてしまったので使えない。
頼りになるものがあるとすれば、虎徹のワイルドシュートだけだ。
バーナビーは虎徹の発する説得の言葉を遠くに聞きながら、頭の片隅で落下速度とワイルドシュートを使用しての救助の時差を計算する。
(全く……面倒だな)
きっと彼女は、本気で生きていたくないのだろう。
少しでもこちらの気を引くつもりならば、虎徹の説得に放っておいてくれという反論のひとつでも返してくるはずだ。
しかし彼女はこちらに背を向けたままだった。
この場にいる3人は、誰一人として視線が交わる位置にいない。
「何があったんだよ。話なら俺が聞いてやるから」
「……無駄だと思いますよ、おじさん」
答えない彼女の代わりに、バーナビーが冷たく言い放った。
「お前は黙ってろ」
そのバーナビーの声よりも冷たく虎徹が呟く。
まるで生き物のように、彼女の黒髪が揺れた。
「そんな陳腐な言葉で死にたい気持ちがなくなるなら、誰も苦労しないでしょう」
ここで彼女が死んだとしても。
明日の新聞の片隅に小さく載るか載らないか、その程度の日常茶飯事だ。
「黙れ」
がしゃり、と虎徹の右足がコンクリートを踏んだ。
一歩、彼女へと近付く。
その音と気配が届いているだろうに。
彼女は僅かに動く事すらしなかった。
「なあ、おい」
虎徹の指がフェンスを掴む。
(本当に、面倒くさい)
何故彼は。
たかが他人の生き死ににこんなに真剣になれるのか。
理解できない……理解しようとも思わないが。
バーナビーは再び小さく舌打ちをした。
そっと静かに、数歩後ろへ下がる。
助走をつけるために。



「いい事をしたと思ってるような顔ですね」
「……んだよ、その言い方」
ビルから飛び降りる寸前の女性を助け、警察に引き渡した後。
先にトランスポーターを降りたバーナビーはわざわざ足を止めて虎徹を振り返る。
「本当に無駄な事が好きなんですね。今日は運よく助けられたけれど、明日はどうなるか分からないのに」
言わなくてもいい一言だったが、どうにも腹立たしかった。
何に対しての苛立ちなのか、バーナビー自身にもよく分からない。
まるで虎徹が何でも救えるような気分になっているように思えた。
救えないものがある事、そんな無力感にすら無縁の脳天気さが癪に障る。
胸の中に渦巻くどす黒いものに衝かれるように、バーナビーは言葉を次いだ。
「あなたが今日、彼女を助けたからといって。彼女が死ぬ事を諦めるとでも?」
夜風の冷たさを感じ、軽く身震いした虎徹は眉を顰めた。
「本当、どこまでもおめでたい思考回路ですね」
「んなこたあ分かってるよ……」
虎徹がようやく口を開く。
視線をゆっくりと自分の右手に落としながら。
「分かってる」
抗う事の出来ない、死の力。
その感触を虎徹は知っている。
「でも…それじゃあバニーは見過ごせるのか?ヒーローとしてじゃねえ。人として、だ」
虎徹の言葉が、普段のおどけた口調を一切抜きにしてバーナビーに突きつけられる。
「俺はな…お前みたいにメリットとデメリットで、簡単に物事が割り切れねえんだよ」
虎徹は答えないバーナビーを一瞥し、ハンチングを目深に被りなおした。
「バニーにとってさ。命って何?そんなに簡単なもんなのかよ」
すう、とバーナビーの背筋が冷たくなる。
「あなたの価値観を俺に押し付けないでください」
つい先日も、こんなやり取りをした。
バーナビーにとって、虎徹に価値観を押し付けられる事ほど嫌な事はない。
「あ〜…そうだったな。悪い悪い」
それまでの緊迫した空気を不意に取り払い、虎徹がへらりと笑う。
「んじゃ、お疲れ!!」
軽く右手を挙げ、虎徹は足早に歩き始めた。
バーナビーは収める場所を失ったままの苛立ちを抱え、その後ろ姿を見送った。



数日後、会社の自席で開いた朝刊の片隅。
彼女がやはり死んだ事を、その記事で知ったバーナビーは柄にもなく動揺した。
まず考えたのは、まだ出社していない虎徹の事だった。
毎日遅刻ギリギリで走りこんでくる彼には、新聞を隅々まで読むような余裕と習慣は無さそうに見える。
出来ればこのまま、虎徹がこの事を知らずに済めばいいのに。
何故かそんな事を思う自分に、バーナビーは更に動揺した。
(だから言ったんですよ、おじさん)
冷静さを取り戻すために、深呼吸をひとつ。
結局自分が指摘したとおりになったではないか。
虎徹がした事は無駄だったのだ。
彼女が亡くなった事をそっと耳打ちし、そして彼を嘲笑えばいい。
お前の両手は、その10本の指は。
零れ落ちる命を掬い上げるには、あまりに非力だ。
それを虎徹も嫌と言うほどに思い知ればいい。
傷つけば、いい。
「おっはようございます!!いい天気ですねえ」
今朝も虎徹は相変わらずだ。
バーナビーは顔を上げて、虎徹を見た。
「おはようバニーちゃん……ってお前、ひっでえ顔!!何だ?何かヤな事あった?」
「……いいえ」
バーナビーは口を開きかけてやめる。
虎徹に関わって朝から精神を消耗するのは、自分にとって無駄な事だ。
「あ、そ?」
どかりと椅子に座り、虎徹は鼻歌を歌う。
その横顔を見た時。
バーナビーは直感で、虎徹が彼女について何もかもを知っていると思った。
知った上で、飄々としたスタイルを取っているのだ。
強がりか、それとも。
それ以上のバーナビーの思考を、緊急出動のアナウンスが遮った。
虎徹の表情が一変する。
だらけた中年の顔から、ヒーローの顔へ。



スーツに身を包み、ほんの一瞬、虎徹が両目を閉じる。
右手を握り締め、深く息を吸った。
それが、彼なりの死者を悼む儀式なのだ。
虎徹は救えなかった命を、ひとつ残らず覚えている。
それをバーナビーが知るのはもう少し後の事だ。
「いきますよ、おじさん」
「……んじゃ、今日もワイルドに咆えるかぁっ!!」
虎徹はフェイスガードを勢いよく下ろした。

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