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寡黙と憂鬱に咲く[12]


22.
その時は本気で迷っていた。
沖田の息はか細く、自分がこのまま携帯電話を開いて救急隊を呼んだとしても、止める力も残されてはいないようだった。
呼んだ方が、沖田の身体のためにはなる。
だが沖田は首だけひたすら横に振って、必死に訴えてくるのだ。

今は人助けこそが、罪になる気がした。

高杉は携帯電話をポケットにしまいこむ。
沖田がその瞬間、安堵の息と共に微笑んだ。

「ありがとう…」

余程力んでいたのか、そう言うと沖田はすぐに、頭をごろりとさせた。
少し咳き込んでいたので、呼吸困難に陥らないよう、上体を起こさせる。

「すいやせん、もう少しで、落ち着きやす、から…」
「俺はいいから、無理すんな」

小さな咳が中々止まらず、しばらく背中をさすっていた。
沖田は時折高杉の服の裾を掴んだ。そうして苦しみを和らげているのだ。
そんな彼に愛おしさすら感じたのは、自分がまだ、完全に冷めきった人間ではない証拠だと、
高杉は妙に優しい気持ちになった。

「ソファに」
「…すいやせん、本当に」

硬い地盤にいつまでも転がしておくわけにはいかない。
慈悲の声をかけると、沖田はその都度、謝ってくる。
これまで沖田が見せていた、孤独を愛する彫り師の顔は、実際は危機一髪のところで、内心かいている冷汗を見せまいと、
必死に取り繕っていた人間像だったに違いない。

分らないでもない。
孤独を愛しているフリをするのは、自分も同じだからだ。

厄介虫が沖田の身体から去るまで、随分長い時間がかかったので、ソファに横にさせるのはかえって危険な気がして、
腰だけ下ろさせた。

「…ずっと前からか?」
「ええ…」

沖田が苦虫を潰したような顔になる。
自分が嫌う自分の姿を他人に見られたことが、屈辱だったのかもしれない。

「情けないですよ…お客さんに助けられてる、彫り師なんて…失格だ」
「人として失格、よりはマシだろ」
「どういう意味です」
「お前が助けられるより、俺が助けない方が問題だってこと」

はっきり言ってやると、沖田が拍子抜けの顔つきになる。
その後、何故だか嬉々としているような、おかしそうな表情になり、


「ああ、それは非常に、納得させられました…」


くすっと笑った。沖田のそんな笑い方は初めて見た。

「差し入れ、有難うございやす」
「ああ、落ち着いたら食ってくれよ」

床の上でくたびれていた袋を取りに行き、沖田に手渡す。
しみじみと紙袋の取っ手を握られた。

「大事に、食いやすよ」

どういうわけか、社交辞令には聞こえなかった。
悪い意味ではなくて、沖田と言う男が、わざわざそういう言葉を選ぶ、気のきいた人間には思えなかったからだ。

「じゃあ俺行くけど、病院、本当にいいのか?」
「心配かけてすいやせん。それならもう…」

病院はもう行かない、と彼は決めていた。
だがずっと付き添い、付き添われるような仲ではないと、おそらく向こうも思っているだろうから、
ここは帰るのが得策だと、高杉は踏んだ。
沖田もそれを止める様子もない。

「すいやせんね、せっかく来てもらったのに…この後、カウンセリングが一本入ってるんですよ。
本当ならここで一杯、やりたいんですがね」

大いに驚いた。
その状態で客の相手が務まるのか。それと同時に、思ったより沖田が自分に対して好意的であったことも、意外であった。

「無理すんなよ」
「しますけどね…」
「そっか」

職人のことはよく分らないが、それが職人なのかもしれない。

「あ、そうそう。待ってくだせえ」

ドアノブに手をかけようとすると、沖田が腰をあげて、何かを持ってきた。
紙ぺら一枚を、差し出される。

「何だコレ」
「割引券でさあ。ここの」
「そんな洒落たモン作ってんだ」
「一応営業でさあ」

沖田がふざけた口調でいう。
彫り師と客の関係であると、暫く忘れていた。
内容に目を通すと、「複数部位だと3割引き」という文字が見えた。
たぶん彫る。
自分は生涯薄暗い一室に身を置かねばならない気がして、恐怖を通り越して笑えた。


「また来てください」


沖田の文句は酷く透明だった。
こんな紙ぺらなど自分には必要ないことを、高杉は伝えたかったのだが、それもまた、ここに来ることが義務のようになってくる気がして、
踏みとどまった。

自分が大分遠いところまで行って、一度振り返った時、沖田はまだ、手を振っていた。
アレには自分がついていなければ、という、思い上がりもいい、母性さえ芽生えた瞬間だった。
自分でも驚くほどに自然に、その手に振り返したのだった。


23.
今日は色々あって、大して歩いてもいないのに歩き疲れた錯覚に陥る。
それでも無意識につま先が示すのは、幻想的な官能色に染められた繁華街であった。
銀ハと土方に抱かれたあと、背中の刻印の痛みは暫く忘れていた。
もともと苦痛を得たくて、肌にメスを入れたようなものだし、沖田の忠告も徐々に遠ざかり、
絵柄を台無しにするのは気が引けたが、それも出来たてほやほやの時より、うんとどうでもよくなっていた。
性獣の飢えには勝てない。

「………」

ふと、高杉は阻まれた。
眼前に年齢不詳の(30以上には見える)、野獣が2匹構えていた。
一人は「ほお…」と、高杉の身体のラインを眺めている。
もう一人は万札の束を口に咥えてニヤけていた。
そんな大層な器でもないのにな、と高杉は苦笑しながらも、好色の視線に、倍くらいの好色の視線を返してやる。

これは犯罪だ。

「優しくされたい?それとも、嬲られたい?」
「その前に生きて帰してくれるんだろうな…」

犯し殺されてしまうかもしれないという恐怖心と、それもまた自分の人生か、と諦めの気持ちと半々だった。
快楽と金が同時に手に入るなら、悪くない駆け引きかもしれない。

嬲れ、と言うと、彼らは口を揃えて愉快そうに吠えた。
高杉を強制的に連れていこうとはせず、ただ背を向けて歩き出した。
その後についていくと、初めて手を差し出される。
肩に手を回されたら、それは後戻りの効かない合図だった。

ホテルに入る前に、きょろっと辺りを見回す。
ピンクとオレンジの色街に、銀色が混じっていやしないかと、無意識に探した。
いたらどうするつもりなのか。止めてほしいのか。

「どうしたの?」
「何でも」

光が眩しすぎる、と伝えると、男二人は「これくらいが丁度いいだろ」と大声で笑った。
こいつらは、ほぼここの住人と化しているのだろう。
この光は闇の裏返しなのに、深すぎる闇だ。

罠だと気付いたのは早かった。否、半ば承知の上で踏み込んだのだから罠とは言わないか。
ホテルのエレベーターに乗った瞬間だった。
背後から、ついでのように、別の二人の男が乗り込んできた。
高杉を除いては、合わせて、4人。

(多いな…)

さすがの自分も、厄介な環境に置かれていることは理解できた。
黙って睨みつけると、連中は勝ち誇ったように笑っている。
抵抗はしない。
一室に入ると、高杉が抵抗してくると思ったのか、2人が彼の二の腕を拘束する。

「安心しなって。金はちゃんとやるよ」

札束が、高杉の唇をくすぐってくる。
一番目鼻立ちの整った男が嘲笑しながら、

「娼婦らしく咥えな。娼婦みたいに、扱われたいんだろ?」

と言ってきた。
そうとも。よくわかってるじゃないか。
高杉は冷ややかに連中を見据えて、こみあげてくる自嘲の笑みを堪え切れずに、口を歪め、札束の中心に思い切り、歯を立ててやった。
口で金勘定をする気はなかった。
もし最後まで咥えていられたら、その金はそのままやる、と言われた。

二人に腕を捉えられたまま、下だけ脱衣させられ、両脚を持ち上げられる。
一人が股の間に頭をもぐらせ、高杉の下の顔を口で蹂躙し始める。
背後の入口には二人分の指が忍び込んで、堂々と行き来していた。
腕を捕まえていた一人は、高杉の首から耳を何度も舐めて、口づける。
もう一人は、手を服の中に忍ばせ、直に、胸の性感帯を摘まみ、弾いた。

「…んんん…っんんーっ…」

札束の半分は唾液ですっかり湿っていて、印刷もドス黒くなっている。
何度も気を飛ばしそうになるのだが、意地でも金は離すまいと、口唇だけは引き締めていた。
その姿を見て、一人がまた大笑いし、

「本当の淫売だな、お前」

顎を掴んでくる。
それは少し解釈が違う。
お前たちは束になっても、自分の底知れぬ欲望には勝てないだろうと、高杉は薄眼をあけて、嘲笑を零してやる。
「何がおかしい」と相手はムっとしたらしい。

4人の男がそれぞれ2本の指で、高杉の中心を串刺しにしてきた。
たまらず甘い悲鳴を響かせると、ますます相手も興奮して、入れ替わり立ち替わり抜き差しされる。

「ほら言ってみろよ、気持ちイイって」
「ダメだこいつ。金を離す気ねえらしいから」

品のない笑いが飛び交い、指で存分に内部をほぐしたあとは、彼らも脱衣して、硬くなった男の棍棒で、
高杉の頬をぴたぴたと叩く。

「いつまで咥えてんだよ、この淫売」

髪をぐっと掴まれ、札束を強引に引き抜かれた。
どんだけ金に執着してんだ、バカかお前は、と罵られ、軽く発火点のある場所が刺激されて、睨みつけると、
「誰か突っ込んでやれ」と一人が言いだす。

高杉は床に転がされる。
二人が高杉の上の服を引き裂いて、襤褸衣に一変させてしまう。
意識がうろついていて、もうどうにでもなれ、と思った。

仰向けに抑え込まれると、足を開かれ、物の数秒で誰かの肉塊に抉られた。
変速的な突き穿ちに、あ、あ、と短く、時には長い嬌声をさらす。

「あなたのおちンぽが気持ちイイ、って言ってみろ。お前は娼婦なんだろ?」
「っあああン…っ…あ、…あ、」
「おら、さっきまでの威勢はどうした」

顔を幅のある手で掴まれ、左右に揺らされた。
ああ、冗談じゃない。

「…ない……」
「あ?」

何だって、と皆揃って耳を傾ける。
高杉は毅然とした顔つきで見返した。



「気持ちイイわけねえだろ、こんな貧相なちンぽ。こんにゃくに挟んでオナってろよバーカ」



夜は大分長かった。
だが意識と別離する瞬間が何度もあったせいで、幸い時間の長さも、さほど感じなかった。

目を覚ますと、男たちは消えていて、妙に“反社会的に洒落ている”ホテルの一室に、自分ひとりが取り残されていた。
髪や顔が湿っているのは、生理的水分が溢れたせいもあるだろうが、ほとんどが外部のものだった。
全員分のそれを、諸に身体にかけられたらしい。

引き裂かれた服は、遠い場所にいつの間にか放られていて、素っ裸になっていた。
起き上がろうとした時ようやく、あまりの肉体的疲労に気付く。
誰とどのような結び目だったなど、覚えていない。
ただ今更のように肌に浮上している痣や、血や、異常な汗や…。

顔も殴られたようだ。運よく、口の端が切れているだけだ。
犯し捨てられたことは気にしてない。
いつも堕ちるセっクスのあとに漂う、この異様な惨めさを、如何に自分ひとりで取り払うかが難関だった。

「出…なきゃ…」

頭痛と嘔吐感を静かに抑えて、高杉は膝を立てる。
膝で歩いて、服を一枚一枚、相当の時間をかけて拾っていった。

終わったよ、今日は。しばらく平和だ。
自分に言い聞かせて、胸を落ち着かせた。


24.
ラブホテルの受付の女は暇そうに欠伸をしていた。
出し抜けに目の前に現れた客に、慌てて笑顔を繕い見せる。
が、その笑顔は消え、女は顔色を変えた。

「いい?これで…」

ひらりと数枚の万札が、女の手元に落ちてくる。
その上にまた一枚、また一枚と。
どれも半分湿って、皺くちゃになっていて、使い物にならない感じだった。

お客さま、ちょっとこれ、と女は顔を再び上げる。
ぎょっとして、言葉に詰まる。


美しい少年が、万札を口に咥えたまま、不気味に優しく微笑んでいた。
優しいというよりも、何処か自嘲の影を潜ませた笑みで。


「お客さま…」
「………」

少年の顔は血と、水と。
乱れた髪が唇にかかっていたり、頬に滑らかな曲線で横たわっていたり。
彼の瞳が何を描いているのか、女には全く分らない。
唇の間に残された、肉体の代替え品を少年は手放した。
女はそれを受取れずにいて、万札は少年の足元に落ちていく。

少年は去った。
布の裂け目から見える、狩人と獲物の絵柄は、鮮やかに色づいていた。

人工的な光が、高杉に夜の感覚をもたらしてくれない。
いつまでも煩い街だ。
壁に幾度か倒れながらも、早くまともな場所へ帰りたいという一心で、靴もはいてない足を引きずって、
光のない現実へと急ぐ。
今度は誰も、高杉には声をかけない。

どうしようもなく侘しい時が訪れる。

高杉はポケットの中を漁る。携帯…携帯を、と指を焦らせて、やっとの思いで手にする。
誰にかける気だ。

一瞬、確かにそれは真実で、正気を呼び戻す声として、自分の心にある。
そして身体にも。
抱きしめられた感覚や、キスや、抱擁や。
会うべきではなかった、と後悔するのは近い気がした。
君は。君は…?

高杉は人にぶつかった。
すいません、とほとんど聞こえない声で通り過ぎる。

親指が追っていく数字は、誰に行き着くものだろう。
人はくたびれると、肉体が嘘をつかなくなる。
かける理由は?
今はなくてもいい。
こんな夜更けに。勝手に指が動いているから。

この涼しげな電子音を聞いたら、音が消えるまでの時間、待つだけだ。


『もしもし…?』


届く合図が、高杉の足をとめた。
ただ安堵するばかりであった。

「もしもし…」
『晋助?』
「ん…」

気のきいた返事はできなかったし、努力もしなかった。

『どうしたんだ』
「うん…」
『何だよ』
「…なんとなく」

声が掠れた時、高杉の頬には熱を持った情が一滴伝っていた。
ここにお前がいなくてよかった。

『ちょっと移動するから待ってろ』

滑舌の良さから、床についているわけではなさそうだった。
声を潜めていたから、恐らく自宅の寝室にいるのだろう。

しばらくすると、雑音が少し聞こえた。たぶん風の音。外に出たのだ。

『こんな時間にどうした?お前がかけてくんの、珍しいじゃん』

改めて、先刻より穏やかな声音で尋ねてきた。迷惑ではなさそうだ。
高杉は力が抜けて、壁に背を預ける。

「なあ…」
『ん?』
「なんか、話してよ」
『は?』

呆気にとられた反応をされる。話し合いをしたいわけじゃない。
声が聞きたかっただけだ。

『用事とかじゃねえわけ?』
「ごめん…」
『別にいいけど。何、独り漫才でもやれって?』

そんなことをマジになってやっている銀ハを想像したら、可笑しくて笑ってしまった。
電話越しに『変な奴』と言われる。

『テレフォンセっクスならしてやるけど』
「んー…」
『んー、じゃねえよ』
「じゃあさ…」
『何』

多分目を閉じて、目を覚ましたら、言えないだろう。

「優しく抱っこして…」

寝心地の中で、そう伝えた。
電話の向こうは無言になる。高杉はそのまま、夢に片足を突っ込んだ。
傷の痛みも忘れていた。

『頭うったのか、お前…』

聞こえていたと思う。そして反応もちゃんとしていたと思う。
高杉は立ったまま眠っていた。
ぼろぼろの成りとは裏腹に、穏やかな寝顔だった。

全く反応が返ってこなくなり、銀ハはため息をついて電源を切る。

「何コレ、どんな嫌がらせ?」

明け方の絵に変わろうとしている薄暗い空の下で、銀ハは自分の携帯電話を睨みつけていた。


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