GS:氷室/マスター
□月はピアノに誘われて
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軽い音を立て、扉が開く音でオレは顔を上げた。
持っていたタバコを灰皿に押しつけて笑みを形作る。
「まだ開店前だよ、生徒さん」
声に押しこめた笑いに気づいたのか、その人物は仁王立ちして頬を膨らませた。
「生徒さんじゃありません!」
「はいはい」
「なんでいっつもそういうんですか、マスターさん」
つかつかと歩いてきて、カウンターの前に座る春霞の仕草に、オレは手を止めかける。
今日はいつもの大人し目な服装でなく、黒いスパッツに肩の大きく出た桃色のキャミソール姿だ。
首には十字架を象った金のチョーカーが巻きついている。
今が盛りとばかりの若さに、ふと不安が過ぎる。
「そんなカッコしてると、零一に見つかったときに言われるよ」
たしか零一の好みの服装ばかりをしていたような気がしたんだけど、今日はなんというか女の武器を全面に押し出して何をする気なのやら。
「え、零一さん来るんですか、今日?」
「さてね」
「えええ――――――っ」
慌てる様子を横目に見ながら、オレはほくそ笑む。
イマドキ、珍しいくらい純粋で素直で真面目で……鈍感な子だ。
在学中も卒業後も、自分のファンクラブがあったこと自体に気づいていないというほどの大物ぶりだ。
零一の気持ちにも他の誰の気持ちにも、まったく気づかなかったとか。
「で。
どうして今日はそんな格好なんだい?」
そんな格好でいて寄ってくるのは、ろくな男じゃないだろうに。
オレの記憶が正しいなら、そのことで先日ももめてなかっただろうか。
「……言わなきゃいけませんか?」
真っ直ぐに見つめてくる瞳がさざなみの様に揺れる。
しかし、その奥には聞かれても絶対に答えないぞ、というような決意が潜んでもいる。
砂糖菓子や硝子細工のごとき外見より、春霞は頑固だ。
――そう、零一から聞いている。
「別に」
ここでは何を話すも話さないも自由なのだから、オレが詮索することではない。
そういうと、春霞は胸を撫で下ろした。
そのなんのことはない動作にまで、動揺しているオレがいる。
零一が夢中になるのもわかる気がした。
こんな年の離れた少女に何動揺しているんだ、オレは。
先日も仲良くじゃれあいながらデートしている姿を見かけた。
今までに見たコトのないくらい、二人とも穏やかで柔らかな顔をしていて、すこし羨ましいと思った。
自分にはもう、手に入らないものだから。
「……本当に聞きたくないんですか?」
「言いたいならどうぞ」
彼女は頭の回転が速い。
時として、言葉が一足飛びに越えてくるから油断ならない。
「ずるいです、マスターさん」
それはどっちのコトだろうね?
「………」
静寂に氷の音階が波紋のように広がってゆく。
音に弾かれて春霞の上げた顔の前に、済んだ青色のグラスをそっと置いた。
彼女が手に取ると、店内のひそやかな照明の光が反射し、グラスは赤や紫、黄色や緑色に姿を変えていく。
「わぁ……っ」
よっていた眉が離れ、その瞳と表情が驚嘆に輝く。
零一と一緒にいるときほどではないにしろ、一応成功。
「変わったお酒ですね〜」
観点がずれていることに内心、肩を落としたが、春霞の反応は素直で微笑ましい。
「お酒じゃなくて、グラスの方」
「え?」
年相応のキラキラしい瞳は、もうグラスにしか反応していない。
「この硝子が変わってるんですか?照明の光で?」
「うん。
光の角度で……」
「硝子の粒子に光が乱反射して、色素を分解する。
光種が変わることにより目に映る光の角度が変化したから、色が変貌するように見えるんだろ。
違うか?」
カウンターの奥から、飽きるほど聞きなれた冷静な声が分析する。
長年の付き合いからわかる不機嫌なその色に、オレは苦笑しつつ席を譲った。
実は零一は先程まで奥の部屋で眠っていたのだが、春霞の気配に気がついて目が覚めたというのなら大したものだ。
いつものスーツ姿とはいえ、寝起きで流石に上着は着ていない。
「いつ来たんですか、零一さん?」
カウンター内から出て、春霞の隣にいつも通り座る友人が無言で飲み物を促した。
半分は少し離れていろということらしい。
――ったく、ここはオレの店だぞ?
追い払われた店主のオレは、開店準備の仕上げに取りかかった。
*(歌斗さん作:月はピアノに誘われて1)