GS:氷室/マスター

□ココロの境界線
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 風と梢と緑の奏でる自然の合唱に、私は耳を澄ませる。
 決して一定でなく、決して同じリズムさえ刻まぬその曲は不快などでなく、誰の耳にも心地よいシンフォニーを届ける。
 まさに、今日という日にふさわしい完璧な演奏だ。

 晴れて、澄みきった透き通る大空と深緑の唄、そして小さな白い教会。

 目が眩むほどまぶしく輝ける光に立つ君は真白いウェディング姿で、まるで一枚絵のようで。
 すべてが遠く、すべてが不確かで、遠い昔に掴み損ねた何かのようで、細波のごとく不安を寄せてくる。

 うっすらと紅に彩られた口唇が何か言って、満面の笑顔で身を鮮やかに翻して走り去る。



「待て!
 待ちなさい!!」


 やけにはっきりとした自分の声の後、目の前にはただ見慣れた天井といっぱいに伸ばされた私の片腕だけがあった。

 夢を見ていたらしい。
 悪夢、なのだろうか。
 彼女がこの手から飛んでいってしまうような気がしている。
 不安がまだ、この胸にある。

 どれだけ君を愛せば、私は安心出来るのだろう。
 この手に掴んでいるハズでも、不安はまだ寄せては返す。
 夕闇の暗い浜辺のような心持ちに、いまだ少年のように躊躇している。

「どうか、している」

 自分で思うより、私は春霞に溺れているらしい。
 自分がこれほどヒトに執着するとは思わなかった。
 しかも自分の教え子になんて――。

 窓から冷たい風が吹き込んで、カーテンを揺らしていた。
 この時期に私が窓を開けて寝るハズがない。
 風邪を引く事などわかりきっているというのに。
 窓を閉めようとして立つと、視界が大きく揺れる。
 そして、ドアを開けて駆けてくる足音と、声。

「寝てなきゃだめですよ、零一さん!」

 柔らかいのに鋭い叱咤は誰に似たのか。
 出会った頃はまだ私に怯えていたというのに、いつのまにこれほどに成長したのだろう。

「まだ全然熱下がってないじゃないですか!」

 春霞の細腕であっさりとベッドに引き倒され、小さなひんやりとした手が額に当る。
 冷たさが気持ちよくて、その身体を引き寄せるとあっさり隣りに転がり込んでくる。

「ちょ、ちょっと!
 熱あるって言ってるでしょーっ」

 掛け物越しに両腕で抱きこむと、ひんやりと冷たさが伝染してくる。
 なのに抱きこんでいるだけで、心の中に温かいものが広がる。
 その名前はたぶん「安心」だ。

「少しだけ。
 もう少しだけこのままで……」

 耳に囁きかけると、春霞は動かなくなって。
 しばらくすると、布団に入りこんできた。

「ま、待ちなさい。
 そういう意味ではっ」

 細い腕は背中に回され、ポンポンとリズムをとって叩く。
 細いのに柔らかな身体に触れて、私の中は熱を帯びる。
 心地よい睡魔が寄せてくる。
 これは、熱のせいだろうか。

「零一さんが眠るまで、こうしてます」

 温かい音とリズムが不安を溶かしてゆく。
 それは雪解けの春の陽射しに似て、まどろみを連れてくるようだ。

 春霞はここにいる。
 ただ一人、私の心を甘く溶かす存在として。

 君がいなければ、私は春の暖かさを知らなかった。

 君がいなければ、私は孤独の怖さを知らなかった。

 それでも、春霞と出会えて良かった。

 甘い痛みも甘い楽しみもすべて、君と共に分かち合おう。



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