GS:氷室/マスター
□甘い媚薬
1ページ/4ページ
人波に逆らって廊下を歩く人影がある。
彼女の名前は東雲春霞。
3年氷室学級のエースと囁かれる、かなり優秀な学生である。
大体の人物が学生食堂に歩いていくが、すれ違うたびに何人もの学生が振りかえる。
それも男女問わず。
歩くたびに揺れる髪は明るいピンクブラウンで、細く柔らかな印象を与える。
肌は白く、伏せられた睫毛の下には茶色の瞳が控え目に覗いている。
見る度に誰もが思うのは「はばたき学園の大和撫子」という異名だ。
もっともそれを本人が耳にしたことはないが。
立ち姿は背筋よく、腕を曲げて抱える日誌さえ、彼女の知性の証のように見えないこともない。
さて、なぜ彼女が昼時に学生食堂と反対方向に歩いているのかというと、そちらのほうに職員室があるというただそれだけの理由である。
受験真っ只中の彼女が学校に来るのもごくわずかだが、本日は三年生の登校日ということなので、久しぶりに見る姿に感歎のため息を洩らすものも少なくない。
開け放たれた窓が一つ。
少し暖かな春の陽射しと共にそこから鳥の声を運んでくるので、春霞は立ち止まる。
鳥の声に惹かれたのかぁ優雅だなー、という声が背後を通り過ぎるのも忘れて、彼女の視線は別な物を捕らえていた。
気づいたような気づかないようなそれにそっと口元だけ微笑み、また廊下をゆっくりと歩くのだった。
「氷室先生はいらっしゃいますか?」
職員室には氷室の姿はない。
これは春霞にとって、実は少しだけ予想済みである。
三年の2月の登校日は14日、バレンタイン。
むしろその為に登校日にしてあるといっても過言ではない。
自由な校風の学園は、本日、高校最後のバレンタインへと賭ける少女で賑っている。
職員室脇のチョコ受け付け箱でも入りきらないほどの色とりどりの包装品。
どう見てもチョコではないと思われるものまではいっている。
チョコはお茶受けになると言われてはいるものの、実は宛名の本人が拒否しなければ、きちんとその口に入るのだ。
それを春霞が知っている理由はもちろん秘密である。
次に校舎から外へ出る。
風に潜む遅き春の気配に身をかすかに震わせ、春霞はある一角へと足を向けた。
人のあまり立ち寄らない、あの場所へ。
「やっぱりここにいたんですね、せんせぇ?」
上からのぞき込んで笑うと、眠そうな顔で二度三度と瞬きした後、氷室はおもむろに凝視してくる。
僅かに緑みがかったペリドットの輝きが日の光を受けて、色を放つ。
そうすると、普段の不機嫌で怖いイメージは崩れ去り、むしろ可愛らしいと表現する者の方が多いかもしれない。
特に眼鏡を外している今は、年齢よりも幼く見えて、とても教師とは思えない。
「どうして職員室にいないんですか?
探しましたよ!!」
「何故、ここにいる。
東雲」
至極もっともな意見に、ニッコリと笑って座りこんだ。
気を使ってか、氷室は上半身を起こす。
上に掛けていた上着が滑り落ちる。
「今日が登校日だからですよ、氷室先生」
どんな反応が返ってくるのかとおもいきや、驚いていた瞳が細められ、口の端がわずかに上がる。
笑っているのだと、思う。
どうして担任がそれを知らないのかというと、それは今日がバレンタインであるということも深く関係している。
つまり氷室は理事長直々の命によって、一日だけ休暇なのである。
理由は、春霞を理事長が気に入っているといえば充分だろう。
その春霞は担任教師に淡い恋心を抱いている。
誰にも知られてはいないが、もちろん氷室も春霞に関心を持っている。
「もうそんなに経ったか」
「私に逢えなくて寂しかったですか、せんせぇ?」
ふざけて言うと、怒ったように何故と返ってくる。
この三年間で氷室のことはよく見てきたから、どういうとどんな反応が返って来るかなんて簡単に予想がつく。
「それで、今日はもう帰るのだろう。
東雲はどうしてここに来た?」
「理由がないと来ちゃいけませんか?」
「いや……」
言葉がお互いに濁る。
少し、沈黙が気まずい。
「せんせぇ、今日はバレンタインです」
「そうか」
「チョコを渡しに来ました」
ザアッと風が空の色を吹きつけてくる。
思わず目を閉じて髪を押さえ、ひとまずソレをやり過ごす。
直前に、珍しく驚いている氷室の顔が見えた。
「毎年、毎年、君は……よく……」