GS:氷室/マスター
□練習曲
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開店前の店内に響くたどたどしいピアノの音色。
曲目は友人が好んで弾いていたクラシックの……なんだったかな。
とても透明なふわりとした優しさを乗せる曲だったと思う。
あいつらしい不器用な優しさが一番現れる、そんな曲。
それを何度もつっかえながら弾いているのは、あいつの教え子であった少女。
名前は……あえて「生徒さん」で通しているが、よく覚えている。
零一が連れてくる人間は数少ないし、中でも彼女は特別な匂いがしたから。
彼女の名前は東雲 春霞。
見た目は普通の少女だが、中身は相当の努力家で、かといって零一のように堅物でもなく。
どんな人間でも心を許してしまうような、笑顔という名の武器を隠し持っている。
「あ〜もうダメだ〜っ」
根気よく続いていた練習も、時に中断される。
まぁ難しい曲だから、零一のようには上手くいかないんだろう。
「少し休憩したら?」
見計らって、透明な液体を湛えたグラスを差し出すと、彼女はさっと取り上げ一気に飲み干した。
「ありがとうございます、マスターさん」
そうして向けられる微笑に、思わずこちらも自然体な笑みが零れる。
「ここのお水はいつも美味しいですね」
「良いカクテルは良い水からって、よくいうだろ?」
「言いませんよ」
軽口に返ってくるのは、柔らかな彼女らしい返事だ。
別に彼女が未成年であることを気にしているのではなく、一応零一の彼女として、俺が酔わせるわけにはいかない。
その心遣いあってか、大学に進学した少女は頻繁に顔を出す。
零一とセットの時はデートの待ち合わせ場所として、今日のように一人でくる時は零一に秘密の相談事として。
ま、後者は大抵無自覚でやってくるんだが。
「煮詰まってるの?」
「あは。
見ての通りです」
覗きこんだ五線譜にはいくつもの書き込みが為されていて、なおかつ応援ともいえるメッセージまで書かれている。
「そういうときはね、少し目を閉じるんだ」
「目?」
「それで曲のイメージをする」
「……曲の」
「それがハッキリしたら、鍵盤に指を置くんだ」
言われた通りに素直な彼女が動く。
数分、そのまま彼女が動かなかったので離れようとすると、背中にかかる声が呼びとめた。
「だ、ダメです〜っ」
振りかえると、何故か顔が真っ赤になっている。
「零一さんの弾く姿が浮かんで余計に……」
一応、今のも零一の受け売りなんだけどな。
それを今言うのは逆効果になりそうだ……。
「じゃぁ少し休憩しろって思し召しさ」
「でも〜もう一ヶ月とちょっとしかないんですよ、零一さんの誕生日まで!」
そう。
彼女が最近来る理由はこれだ。
誕生日に零一にピアノをプレゼントしたいというのだから、無謀にも程がある。
でも、まぁやって出来なくもないと思ったから、こうして練習場所を提供しているのだが。
「まだそんなに先じゃないか」
返事はわざとらしいくらい深いため息だった。
「……もっと真面目に、ピアノ習っとくんだった」
悩んでも仕方のないことを何時までも悩む姿は、少し零一に似ていないこともない。
付き合い始めると似てくるとはよく言うが、似せる箇所がちょっと間違えた風だ。
「まぁまぁ、大丈夫だよ」
「そーゆう根拠のない慰めなんかいらないですっ」
「根拠ならあるよ。
3年間も零一の担当クラスでトップだったんでしょ?
だったら、問題ないって」
完璧主義なあいつのクラスなんて、俺は死んでもごめんだけどね。
「これとそれは別ですっ。
あ〜零一さんみたいに弾きたい〜っ」
それは、無理な相談だ。
ピアノだけでしか自分を素直に表現できない零一と、誰の前でも素直になるこの子では、根底から違うんだろう。
そこに零一も俺も惹かれるんだろう。
俺も?
「そいつは無理だ。
あの音は零一にしか出せない音だからな」
ピクリと彼女の眉が跳ねあがる。
「マスターさんまでどーしてそーゆーこというんですか?
時々、零一さんによく似てますよ。
そーゆうとこが!」
かすかに頬を染めて、彼女はピアノに向かいなおす。
そしてまた、たどたどしく練習が再開されて、俺はカウンターの中に戻る。
彼女くらいのモノだ。
俺と零一が似ているなんていう人物は。
厭味でもなんでもない証拠に、言葉は甘いカクテルのようにゆっくりと俺の中に浸透する。
その名がなんというのか、この時の俺はまだ知らなかった。
さざめく嵐の前の波間のように、時は穏やかに流れていた。