GS:氷室/マスター
□赤いGLASS - Master ver.
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自分の足音と人の足音の区別をつけるのは簡単だろうか。
それともとてつもなく難しいものなのだろうか。
ただ、私がいまわかるのは、早くいつもの場所へ逃げ込みたいというコトだけだった。
安心して、休める場所はあまりない。
ノックもせずに、開いているかも確認せずに、私は蹴破る勢いで店内に駆け込んだ。
夕日とはいえ、真っ直ぐ見ていたせいもあって、すぐにはその暗さに慣れない。
明反応と暗反応という言葉が即座に浮かんで、曲げていた背中を叩かれて、びくりと身体を震わせる。
「はい、水」
「あ、りが、と」
肩で息をしながら、中身をまったく確認せずにグラスの中身をあおる。
冷たい液体が身体の中心をすぅっと通り、その勢いで酸素も一緒に飲み込んで、一瞬の間の後、一気に吐き出した。
「はぁ……っ」
空のグラスを奪って、私の背を軽く押すのは、この店の店主だ。
落ち着いたクラシックなジャズバー『カンタローペ』は彼、益田義人の店である。
私は、その友人。
まだ。
「今日はまたえらく急いでるね〜」
案内されるままにカウンターに座り、そのままテーブルに頭を置く。
まだ呼吸は整っていないのは無理もないだろう。
いったいどれだけ全力疾走したかしれない。
高校の体育祭だって、ここまでは走ったことがない。
「もう一杯飲む?」
「お願い、しま」
「敬語はなし」
します、と続けようとして、遮られ、ようやく笑みが零れた。
同時に心にも余裕が出てきて、ぐるりと店内に目を向ける。
こざっぱりとした店内はもう客を待つばかりになっていて、薄暗い室内燈にニス塗りの木机が鈍い光を照り返している。
各テーブルにセットされた透明の灰皿も、磨き上げたばかりの光を放ち、幻想の灯りを生み出して、カンタローペに色を添えている。
「せんせぇはまだですよね?」
「うん、君が一番だよ」
返答に満足な微笑みが零れる。
それでこそ走って来た甲斐もあるというものだ。
卒業して、交響楽団に入った私は毎週末をこのカンタローペで、零一先生と店主と過ごしている。
まだ未成年だからお酒は出されないが、ここでこうして過ごす時間はとても楽しくて、唯一安らぐことの出来る時間でもある。
「これで10連続、せんせぇより先に来たことだし、ご褒美くれるでしょ?」
水を出して、目があった瞬間に、目を細めて笑う。
そうすると、店主はとても驚いた顔をしてくれる。
いつもはその後にとても優しい顔をして笑ってくれるのだ。
私はその笑顔がとても好きだ。
いつもと違って、本当の笑顔みたいに思えるから。
「前にそう言いましたよね?」
「覚えてたのか〜」
そういう賭けだったし。
「ご褒美って、なにくれるんですか?」
ぐるりとカウンターを回ってくる店主を身体全体で追いかける。
そのままこっちに来ないだろうと予想し、椅子から飛び降りる。
くやしいけど、カウンター席はまだちょっと高めなのだ。
おかげで店主の近くまで近づけて嬉しいのだけれど、椅子から降りるととたんにその差が開く。
「あ、座っててイイよ」
「えー」
「ちょっと待ってて」
不満の声を当てると、苦笑して奥の部屋への扉に消えてしまった。
もしかしてもう用意してあるのかなと、期待しながら、すぐ近くの椅子を引き寄せて座る。
机に肘をつくと、冷たい感触が伝わってくる。
香りは真新しい木の匂いと、古い木の匂いが入り混じり、そこにさらに芳しい香りが混在する。
切り出して、すぐに奥へ行くというコトは、すでに何か用意してあるのだろう。
でなければ、もう少し困った様相を見せてくれるはずだ。
店内を見まわしても、店主のセンスのよさは分かるというものだが、ここで私にとって重要なのはそんなものでは全然なくて、店主からもらうという点のほうがよっぽど重要だ。
もし何もなかったら、ひとつだけ「お願い」を聞いてもらおうと思っていたけど、それは忘れておこう。
木の扉の軋む音に思考を中断し、首を巡らせる。
自然と零れていた微笑が、急に不可解な謎に捕われる。
「……マスターさん……?」
「たしかに約束は約束だからね。
もったいないけど、これはとっておきの内緒だよ」