GS:氷室/マスター

□誰彼のまどろみ
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 夕日の眩しさと、柔らかな空気が私を呼んだ気がした。
 オレンジの光に音楽室全体が飲み込まれ、ひとつの風景のように私は納まっていた。
 染まるピアノの向こうに私服の女性の姿と、部の女子生徒の姿が見えた。
 女性が着ているのは黒のサブリナパンツに桃色のチュニック。

「……から。
 ……ね?」
「あ……っ!
 あの、それじゃ、さよーならっ」

 逃げるように駆けていく足音は、吹奏楽部の生徒のものだ。
 うたた寝をしているうちに、部活も終わる時間になっていたらしい。

「あはっ、バイバーイ♪」

 廊下の向こうに半身を出して、見送ったのは誰だろう。

「……何を、話していた?」

 声に驚いたのか、春霞は手に持っていた何かを机に置いて振りかえった。

「もう起きちゃったんですね、せんせぇ」
「……何故、ここにいる」

 寝起きだから頭がはたらかないのではない。
 幻覚でもなんでもなく、どうして彼女がここにいるのかと疑問が残った。

 春霞は悪戯に微笑んで私を惑わせる存在だ。
 どんな強い酒よりも、強く私を酔わせる。

「もちろん、せんせぇに会いに来たんです♪……って、そんな怒らないでください。
 あの……、冗談ですから」

 喜ぶより、先に顔をしかめていたらしい。

「カワイー後輩に会いに来たんですよ。
 今年もかなり入ったみたいですね。
 やっぱり、せんせぇの効果ですよね。
 ちょっと……恐いけど……アレだし」

 考える仕草をしつつ、独り頷いている。
 つまり、母校訪問に来たついでに、自分の所属した部活に顔を出したというところか。

「アレとはなんだ?」

 聞き返すと、驚いた顔が困ったように笑んだ。

「いいたくない、です」

 何度聞き返しても、春霞は答えない。

「自覚、ないんですね」

 そのように深くため息をつかれても困るのだが。

「……二人ともどうしてこう……アレなんでしょうね」
「だから、アレとはなんだ」

 そして、もう一人とは一体誰のことだ?

 質問には全く答える気がないとでもいうように、春霞はピアノに向かった。

「東雲」
「ねぇ、せんせぇ。
 1曲ひいてください」
「……弾けば、答えるか?」

 その解を得られぬまま、私はピアノを開いた。
 椅子を持ってきて、春霞も隣に座る。

「なんの曲だ?」
「何でもいいです」

 夕日が世界に投げかける一日の僅かな光は、かすかに春霞を照らし出す。
 なんてキレイなんだと見とれかけた視線を外して、衝動に駆られる心を留めた。

「そうだな……」

 今、この時ならば弾けるかもしれない。
 そうして弾き始めた曲はいつものクラシックではなく、何時も父が弾いていたジャズだ。
 技術だけしか持っていない私に、この曲を父以上に弾きこなすことはできなかった。

「……聞いたことある。
 なんだっけ……」
「Say You Love Me」
「……でも、クラシックじゃない……」

 意味に気がついて、春霞が小さく声をあげた。

「……母が」
「え?」
「好きな曲で、いつも父が弾いていた」

 こんな話は言い訳でしかない。
 でも、知っていて欲しいと思った。
 父の演奏は完璧とまではいえなかった。
 だが、それ以上の演奏を私はできない。
 教師として、完全な自信はある。
 だが、彼女に対しては正直、なんの自信も持てない。

「ステキな御両親ですね」

 うっとりと返ってくる答えに、それだけで満足してしまった。
 春霞の前で私はどんな表情をしているのだろう。

「ねぇ、せんせぇ?」
「なんだ?」
「一緒に帰りませんか?」
「問題ない。
 君の家は……」
「せんせぇの帰路にありますものね」

 先を取って、春霞は柔らかく微笑んだ。
 その微笑だけが私の心を溶かすこと、君は知っているのか?



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