GS:氷室/マスター

□月はピアノに誘われて
2ページ/4ページ

 隣に座る春霞は、一心にグラスを眺めている。
 彼女がグラスを揺らす度に、中で涼しげに氷が音楽を奏でる。
 自然な音というのは完璧なまでの様相を呈しており、クラシック・オーケストラにも劣らない。
 だが、俺の目に映るのはグラスでもその音でもなく、他でもない春霞の横顔だ。

「不思議ですね」

 淡い霞のため息をこぼし、その視線がようやく俺に向けられた。

「そう思うでしょ、零一さん」

 笑顔に見惚れ、つい返事を忘れたと言っても、罪にはならないだろう。
 変化するグラスの色より、今は目の前の少女の表情の変化の方が気になる。

 決して完璧な生徒とは言えなかった。
 藤井と共に悪ふざけもする、かと思えば学年一位記録保持者であったりもする。
 編入当初は一学期期末で赤点を取り、その後のすべての定期テストで一位を取り続けた彼女。
 真っ直ぐにぶつかってきた春霞を好きになったのは、いったいいつからだったのだろう。

 決して理想的な生徒、ではなかった。
 恋とか愛とか、そういう感情を自分がもつことさえ信じられなくて、何度も言い訳した。

「本格推理みたいですよね」

 夢見心地な視線がグラスに戻ると、少し寂しくなる。
 春霞が色々なものに興味を覚えること自体に不満はないが、ここに俺がいること以上に大切だといわんばかりの行動に嫉妬する。

「どういうことだ?」

 少しの剣を含ませても、春霞は気づかない。

「最近読んだ本の受け売りです。
 理屈じゃないんですよね、こんな風に硝子の色が変わるのが綺麗なのは」
「どういう意味だ?」
「綺麗なものは綺麗なんです!」

 力説する肩を引き寄せようとした瞬間に、春霞が向き直った。

「零一さん、ピアノ弾いてください」
「何故だ?」
「だから、綺麗なものは綺麗なんです。
 零一さんのピアノが綺麗なのも同じことです!」

 よくわからないが、それは褒めているのか?空中をさまよう手を、彼女の小さな手が捕えて引き寄せた。
 絡められる指に、高校生のように心が高鳴る。

「私、ピアノ弾いてる時の零一さん、好きです」

 瞬時に自分の身体が沸騰するのがわかった。
 動揺を悟られたくなくて、視線を外すものの手を振り解けなくて、指先から細胞のひとつひとつまでもが叫ぼうとする。
 今すぐに、抱きしめたいと。
 触れ合いたいと。

「な……っ、離しなさい」
「弾いてくれるんですか?」

 拒否など、出来るわけがない。
 澄んだ瞳に真っ直ぐに見つめられて『お願い』されて、拒絶などできる人間はいないだろう。
 ……いないはずだ。

 俺も、一回りも年の離れた少女にいいように振りまわされて、それでも抗うことも出来なくて。
 これが、恋とか愛とかいうものなのだろうか。



* * *
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ