03/11の日記

21:00
0311
---------------
3月11日ですね、
皆さんいかが過ごされましたか?

私の地区は有難いことに被害も少なく、
家の倒壊も、家族が怪我をすることもありませんでした。

思い出すのも忌まわしい、と思う方、ごめんなさい。

でもやはりこの日、
私なりの震災の日をまとめてみようと思います。

所々私の言葉が入りますが
それは福島県民すべての総意ではありません。

あくまで福島のある場所に住む、
ある1人の人が体験したこととして捉えてください。

そして読んで下さった方に
ああ、こういうこともあったのか、と思って頂けたら幸いです。



3月11日、中学生だった私は卒業式を迎えました。

例年通りの卒業式だったので
特に記憶していることもなく、
至って普通に式は終わりました。

午後から友人と卒業記念と称してとあるデパートに食事に行きました。

他愛ない会話をして、好きなものを注文して、
またお喋りして、といった
本当に普通の日を過ごすはずでした。

いよいよ食べ物が来た、食べよ、
あ、美味しそう、一口交換しよ、

すると、携帯が鳴り出しました。

聞いたことありますか?
結構けたたましい音鳴るんですよ。

すごく耳に残る警報音。

最初は
え、本当に鳴るんだ、すげぇ!と半ばふざけた調子で言い合っていました。

するとぐらぐら揺れ出します。

マジで揺れてんじゃん!当たるもんだねー、と
やはり本気にはしませんでした。

その瞬間が、2時47分だったんでしょう。

少しの間柔らかい揺れが続き、
すぐ収まるだろうと思っていた矢先、
激しい横揺れが起こりました。

物が倒れる音、落ちる音、割れる音。

一瞬で回りのものが壊れていきました。

店員さんの指示で通路に出ると
すぐ横に見えるはずのゲームセンターは埃や、スプリンクラーの水でしょうか、
とにかく全く見えませんでした。

電光掲示板は傾き、停電して薄暗くなったデパートは
小さい頃から通っていた場所とは思えません。

割れたガラスを踏み越えて、非常階段から外に出ました。

今日のように風が強い日で、
制服だった私たちは身を寄せ合いました。

大きな地震だったことに今さら気付き、両親に電話しても繋がりません。

メールも届きません。

家にいる母親や、遊びに行った妹や、学校にいた弟たちが気がかりで、
電話しても、電話しても通じないのです。

友人たちが帰る中、
そこがわりかし近所だった私は歩いて帰ろうとしましたが、
ある友人が家まで送ると言ってくれました。

渋滞した道を走ってくれた友人とそのご家族には本当に感謝しています。

車窓からの景色はやはり普段とは別物で
亀裂が入った道路、隆起したマンホールなどは本当にショッキングなものでした。

車を降りて家に帰るまでのわずかな道でさえ、石垣が崩れ、その上の家が傾いているのが見えました。

家に入ると、母が泣いて迎えてくれました。

妹も弟たちも無事でした。

心配した父からのメールも届きました。

安心の直後、家が崩れてしまったと友人が私の家にやってきました。

私の家から彼女の家までは墓地に挟まれた道路で繋がっているのですが、
倒れた墓石が道に転がっていました。

骨壺が見える墓もありました。

その光景は忘れられません。

水道が止まり、ガソリンは買えなくなり、コンビニからは食品が消えました。

そんな中、私の家族六人と、友人の家族三人とでの数日間の生活が始まりました。

わずかな揺れに敏感になってしまった私は
しばらく怯えていました。

手に入る時は水や食料を買い込み、水が出たときは1人バケツ一杯だけで体を流し、トイレは家の裏の川の水で流しました。

消防署の人が水を配っている日もありました。

そうやって生活していたのです。

それだけ水が足りないのに、その前には津波がきていたらしいのです。

私の地区は内陸部なので実感がありませんでしたが
生放送での映像はまさに衝撃でした。

そして、原発が爆発しました。

テレビを見ていると
放射能がどれだけ広がるかを放送していました。

退避区域が示されました。

時間がたつごとに広がります。

その夜はいつ私たちの所まで避難指示が出るかわからないので
寝付けませんでした。

結局私たちの地区は大丈夫でしたが、
皆さんご存知のように未だ放射能に脅かされている場所があります。

たまに通った水道も使えなくなりました。

原発の爆発で電気も足りません。

お金があっても物がありません。

何もできませんでした。


外には県外のパトカーが走ります。

ヘリコプターが飛び交います。

私の育った福島で一度にたくさんの人が怪我をし、亡くなったんだと実感しました。


私の高校入学の合否発表は延期されました。

無事受かれましたが、
通常通りのクラス分けはされませんでした。

このような細かいところまで影響は広がっていたのです。




ここまで私の当時を振り返りました。

わかりづらいですね、すみません。

これから少しだけ、現在の視点で書きます。


私の家の近くには高速道路があるのですが、
外壁が崩れました。

そこの修理はなかなか終わらず、道路を塞いでいたのでかなり不便でした。

友人は引っ越しました。

先ほど述べた石垣は直しきれず、
生々しくその姿が残っています。

学校のプールの授業はなくなりました。

毎朝食品や学校の放射線量を放送します。

マンホールは飛びだしたままです。

小学校の横に地面を削った土が並べてあります。

友達の家の近くに仮説住宅があります。

学校に、遠くから避難してきた人がいます。

役場で放射線量を測る測定器を貸し出しています。

土に触るなと言われます。

公園で人を見かけません。

ペットボトルの水が山のように売られています。

差別に怯えています。

甲状腺の検査をしています。

地震へのトラウマが皆の心に残っています。



しかし、毎日元気に過ごしています。

私達の学校では、皆普通と変わりません。

私も以前と変わりません。

笑って過ごします。

外にも出れます。

電車も車も走っています。

私達の地区では、以前に近い生活をしています。


傷跡は残っています。
ですが私達は元気です。


ニュースの報道が福島の全てではありません。


普通の生活をしている人々もいます。


哀れみの目で見ないでください、
普通に接して、心で応援してください。

私はそれが嬉しいです。


東北の人々は我慢強いらしいです。

頑張れます、少なくとも私は。



長々とすみませんでした。

最後まで何を言いたいかわからないですね、反省します。

時間があるときに編集しますね。

私が言いたいのは
こういうことがありましたが、頑張れてますってことです。



そういえば私は阪神大震災の年に大阪で生まれたのですが、

私というまだ若い人間が生きてる間で、大きい地震は二回目なのに
このぐだぐだは何なんでしょうね。

たった15年前にも似たようなことがあったのに
何も出来なくなるって…

人間が進歩していないのか、
大自然には永遠に勝てないのか。

せめて通信系はいざというときしっかりしておかなきゃ困りますね。

伝言ダイヤルとか、15年前に普及しておくべきでしょう。

前列を活かして欲しかった。


以上です。

東日本大震災で亡くなられた方の冥福をお祈り致します。

前へ|次へ

コメントを書く
日記を書き直す
この日記を削除

[戻る]



©フォレストページ