わら半紙の裏のほう

□海辺と彼女
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「ウミネコは」
防波堤の上、両手を広げてふらふらと歩く彼女が楽しそうに言っていた。
「本当に猫みたいに鳴くんですね。」
白いワンピースが潮風に吹かれて、ふわりと踊った。
ショートヘアを押さえつける指は細かった。
彼女はそのとき、笑っていただろうか。

全てが過去形なのがひどくもどかしい。



コンクリートは潮に浸食されてぼろぼろ。
俺が歩いている防波堤の下の方には放置された網とか、硬化したブイとかが転がっている。干からびたヒトデを見つけた時は少し悲しくなった。
俺より随分高い位置、防波堤の上をサーカスの綱渡りみたいにして彼女が歩く。
波の音、ウミネコの声、それに混じって彼女の歌が聞こえる。小さな声なのでよくは聞こえなかったが、彼女の好きな歌だ、とそれだけはわかった。
空は橙と紫の奇麗な二色。雲の流れがはやい。
「雨が降るかもしれませんね」
上から降ってきた彼女の声で、俺と同じものを見ていたと気付いた。
「そうだね……やっぱり残念?」
「何がですか?」
俺の問いに彼女は足を止めた。見下ろす顔には不思議そうな表情。何が残念なのか、さっぱりわからないといった感じだ。
「せっかく海で一泊できるのにさ。雨じゃ楽しさ半減じゃない?」
と言うか、景色を見に来てるのに、外に出れないんじゃ無意味も同然だろう。
「いえ、私は雨の海を知りませんから」
そうだった。今回、俺は彼女に海を見せるために車を走らせた。生まれて初めての海を見せるために。
そして、初めて見た海はよく晴れていた。
「ん。じゃあ、雨合羽買わなくちゃね」
「はい」
きっと彼女は雨の降る中でも散策をしたがるだろうから。


「晴れましたね」
青い合羽を着た彼女は砂浜に足跡をつくりながら、残念そうにつぶやいた。一晩中弾丸のように降り続いた雨は、俺たちが眠っている間に止み、今は早朝の薄黄色をした空が顔をのぞかせている。
彼女とは朝食までに民宿へ戻る約束をしていたが、それも必要なさそうだ。
彼女は一度知ったものに対する興味が極端に薄い。きっと、今回もつまらない顔をして海に背を向け、振り向くこともないのだろう。
実際、彼女はこれで見納めといった表情で水平線を眺めている。
「あれ。」
丸い眼が、見開かれた。
ゆっくりと腕が持ち上がり、細い指が遠くの砂と海水の境界線を指す。
眼鏡の位置を直して、目を細める。俺は彼女ほど目がよくない。
しばし、目を細めたり開いたりを繰り返すうちにピントが合った。
「ああ、あれ」
鯨が死んでいた。正確には海豚かもしれないが、よく見えなかった。それに、俺にその方面の知識はない。海に生きる哺乳類は大体同じに見える。
とにかく、その死体の周りには海鳥が集まり、死肉をつついているようだ。
「行ってくる」
彼女はそういって駆け出した。
昨晩の雨を吸って砂は重い。それを蹴散らして彼女は進む。
俺はそれを見て、ああ、靴が汚れるぞ。それだけを思う。

ギャアギャアと騒ぐ鳥たちが、生き物の死体の肉を貪る。
死体は静かに身を千切られている。
彼女はそれを静かに見ていた。
俺はずっと、同じところに突っ立っていた。

「そろそろ帰ろうか」
精一杯時間をかけて彼女に歩み寄り、俺の胸板あたりまでしかない頭にぽんと手をおく。朝食の時間はとうに過ぎている。
彼女はゆっくり振り返る。
「はい」
その頬が、紅潮していたことに俺はひどく驚いた。
彼女とは結構長い間付き合っているが、そのなかで今日のような表情を見たことは一度もなかった。
しっかり一呼吸おいて、尋ねる。
「……楽しかった?」
「はい」
口元に変化はないが、きらきらした瞳で彼女は笑っている。

結局、彼女が何にそこまで強く感情を動かされたのか知ることはしなかった。
何となく怖かった。
知ってしまえば、予感が本物になってしまいそうで。


その日の夕方、宿で荷物をまとめていると彼女が「もう一度海を見たい」と言って散歩に出た。
俺はついていかなかった。
そして、そのまま彼女は帰ってこなかった。




あれからどれだけ時間が経っただろうか。
なぜか思い出すこともおっくうだ。

彼女と別れてから、今でも、海辺を通るとあのショートヘアを探してしまう。
きっと、彼女は死について知りたいと思って、宿を飛び出したのだ。
きっと、いつか彼女は俺のもとに帰ってくるだろう。彼女は一度知ったものに対する興味が極端に薄い。


彼女は、彼女が生きているうちに、俺のもとに帰ってきてくれるだろうか。

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