シド
□僕の掌で踊れ
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虎視眈々と狙う僕に気付かずに、目の前の彼女は眉を潜めて一言呟いた。
「唇いたい…」
「荒れたの?」
「たぶん。」
唇を軽く噛みながら、人差し指で撫でて瞬き。本日も麗しくて困る。
彼女は痛そうにしているけれど、唇は荒れていないように見えた。厚くて赤いそれは酷く魅力的で、噛みつきたいと脳が囁く。
一瞬も反らさないで彼女を見詰める。仕事終わりに誘った夕方のカフェ。
オレンジの日差しが僕の狡猾な本性を緩和していた。
「今使ってるリップクリーム効かないんだ」
「俺いいやつ持ってるから今度あげるよ」
「いいの?」
「うん、痛そうだし。…触ると余計荒れるよ?」
そう言って、左手を伸ばしたら人差し指で彼女の指を絡めとる。
冷たい体温に、つい笑いそうになった。
「……うん、」
平静を装った風に彼女は頷くけれど、動揺しているのが目に見えて分かる。
指先が触れる程度のことにさえ、心を揺らしてくれるのだ。
彼女が抱いている「僕に知られたくない感情」を知っている僕は、それを利用して何かする度に、彼女が期待した通りの反応をするのがひどく嬉しくて楽しい。
思い通りに焦ったり困ったり笑ったり落ち込んだり、一体どうしてこんなに単純で純粋なのだろう。
そんなの、からかうに決まっている。
「そういえばさっき、人混みで誰かが×××ちゃんのこと呼んでたよ」
「え?」
ココアのカップを弄んでいた彼女が、ぱっと顔を上げる。
「ああ、やっぱ気付いてなかった?」
くつりと喉で笑い、探るように覗き込んで彼女を見上げた。
「大通りの交差点渡るときに向こう側で名前呼んでたけど、気付く素振り見せないから諦めてた。」
「えぇ…言ってくれればよかったのに」
誰だったのかな、と考える彼女に、何と言えばいいリアクションをしてくれるのだろう。
僕もコーヒーカップを持ち上げて、ふんわりと笑いながら呟いた。
「わざと知らないふりしてるんだったら言わない方がいいかなって。」
「そんなことしないよ」
くすりと笑い返す彼女からわざと少し目を反らして返事をした。
「まあ、そうも思ったんだけど、でも呼んでたの男の人だったから。」
「……うん?」
訳のわからない理由に、彼女が一瞬静止する。
もう一度目を合わせたら、その言葉に意味深さを含ませることに成功した。
さっきまでと空気の違う僕に、彼女が何かを察知して急にぎこちなくなる。
「えっと…どういう意味?」
「別に?そのまんまだけど。男の人だったから教えなかったの。」
朗らかに微笑みかければ、もう彼女は何も言えなくなる。
ああ、僕は愉快でたまらない。
だって、顔に、「胸が苦しい」って、書いてあるのだから。
「・・・そっか。」
彼女は少し悩んだような顔をして、静かに一言だけそう言った。
そこで「なんで?」とか聞けばいいものを、なんとなく気まずくて言い出せない気の弱さが如何にも彼女らしい。
きっとこの先も、僕から詰め寄らなければ、僕と彼女がお互いに希望する関係になどなれないだろう。
「うん。やっぱ教えたほうがよかった?」
悪びれもせずに、いかにも楽しそうな僕を見て、彼女は困った顔をした。
「・・・いや、別に、そんなこともないけど」
「でしょ?だいたい、×××ちゃんて、俺といるとき周り見てないよね。だから、どうせ教えてもその男の人と上の空でしか会話しないだろうなと思って。」
「いや、それは・・・」
ほら、顔に「図星です」って書いてあるじゃん、と笑いそうになる。
僕は、彼女を手に入れたいと思う一方で、こんな風に僕の一挙一動に彼女がいちいち慌てふためき、困り、照れるのがとても好きだ。
「まあた唇噛んでる」
手を伸ばせば、簡単に届く。今度は唇に触ると、いよいよ彼女が真っ赤になったから、僕はうれしくて笑った。
僕の掌で踊れ