シド
□気まずいスイッチ
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近所のお兄さんはどうやらギタリストらしいが、なるほど、通りで垢抜けていらっしゃる。
たまに出会っては「こんにちはー」なあんて爽やか100パーセントで困ってしまう私は、まだまだ子供である。
「あー、ケガ?」
「いやあ、はい。」
ある晴れた日の午後、今日も出くわしたお兄さんは、私の膝を見て一言。
私は照れつつ頭を掻きながら穏やかにお返事。
この人と話していると、自然と優しい気持ちになるのだ。
「先日、転びまして。」
「ああ、もしかしてサドルの高さ合ってないんじゃないかなあ?」
「えっ?」
「えっ?」
可愛らしく笑ったお兄さんに、つい胸がきゅっとなって言い返す言葉を無くす。
私、自転車に乗っていて転んでしまったのだと、言ったかしらん?
「痛そうだねえ」
「なかなか痛いですよ」
「でも、怪我して2日なら、まだ暫く治らないんじゃないの?」
「えっ?」
「えっ?」
そして、また可愛らしく笑う。
案の定、私の胸はきゅっとなって、言葉を無くす。
私、2日前に転んだのだと、言ったかしらん?
「ともあれ、大荷物で大変だね。」
「ああ、はい。」
私はつい今しがた買い物を終えて、食料品やらお洋服やら本やらと、両手に荷物の体である。
「近所だし、手伝うよ」
「しんぢさんも、今帰宅ですか?」
「うん。はい、貸して。」
「いいんですか?」
「任せて。」
「ではお願いします。」
お兄さんは私の手から重い順に袋を取り上げて、荷物の殆どを持ってくれた。
そうしてゆっくりと歩き出す。
青空が綺麗だなあ、と思う。
「×××ちゃんのマンションって、エレベーター無いのに、これ抱えて3階まで上る気だったの?」
「えっ?」
「えっ?」
まぁた、ふふん、と、とぼけるように笑う。可愛いので、案の定私は丸め込まれて、おかしな点を指摘し損ねる。
私、マンションにエレベーターが無いこと、3階に住んでいること、話したかしらん?
そういえば、何故、この人と顔見知りになったのだっけ?
そんなことを考えながら、お兄さんに「3階なんて案外すぐですよ」と返事をした。
確か、よく道で会うなあと思って、顔を覚えて、その内挨拶を交わすようになって、会話も少し増えて、その中でご近所さんなのだと知ったのだ。
私は、このお兄さんの名前と年齢と、職業に、あと住んでいるマンションくらいしか知らない。
なんで、お兄さんは、私のことを色々知っているのかしらん?
そう思いながら欠伸をしたら、お兄さんがそれを見て口を開いた。
「眠いの?」
「はい、少し。」
「今日は家出るの早かったもんね。」
「えっ?」
「えっ?」
そしてまた笑顔に丸め込まれる。
私、今朝お兄さんと出会ったかしらん?
「すいません、部屋まで。」
「いいよ、このくらい。」
荷物をわざわざ部屋まで運んで貰って、たいへん助かった。
鍵を開けて自分の荷物を玄関先に置き、お兄さんに持って貰った荷物を受け取って、それも玄関先に置く。
「ところで、しんぢさん。」
「うん?」
「なんで、私の部屋、知ってるんですか?」
「えっ?」
「いや、今度は丸め込まれませんよ!」
笑顔に屈せず、何でですか、と問えば、まだにこにこと誤魔化すように笑うお兄さんは、私の部屋の中を指さして言った。
「そこに、俺のマンションがあるでしょ?」
「はい。」
私の部屋は角部屋で、お兄さんが指した方向には窓があり、その窓の正面に彼の住むマンションがある。
「俺も、角部屋なの。ちょうど、この部屋と向き合う場所の。」
「はい。」
そういえば、隣のマンションの、私の部屋の正面の窓は、いつもカーテンが閉まっていた。
あの部屋は、この人の部屋だったのか、と分かった刹那、疑問符が浮かぶ。
「質問と、どういう関係が?」
なぜ話した覚えのない私の情報を色々と知っているのか、ということと、部屋の位置に、なんの関係があるのか。
察しの悪い私が、そんなことを言いながら背の高いお兄さんを見上げれば、彼は優しく笑いながら私を見下ろして、言った。
「見てたの。」
気まずいスイッチ「み」!
「見てたの」
「えっ?」
「えっ?」
また、お兄さんは、不穏な空気を誤魔化すように可愛らしく笑った。
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