Plastic Tree

□とびきり哀しい話を聞かせて
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失敗したって余裕綽々、うまくいかない日だってあるし、ご飯を美味しく食べられて、ぐっすり眠れば幸い至極。

「なんで、そんなにいつも、にこにこへらへらしてるの?」

隣人の有村さんとは、一緒にお出掛けするほどの仲だ。暇だったので、一緒に映画を見てご飯を食べ、本屋さんに寄って、これでもかと楽しい気持ちで帰宅途中、有村さんがとっても不思議そうな顔で私を見ながらそう言った。

「楽しいので」

あっけらかんと答えれば、うーむと唸ってまた質問をする。

「毎日?」

「はい」

「ほんとに?」

「ほんとうです。わたし、毎日へらへらしているでしょう。」

「そうだけど。」

えへへ、と笑えば、有村さんも微笑んでくれる。とっても優しい人なのだ。

「わたし、ぽんこつなので、メソメソする余裕無いんですよ。失敗もたくさんしますけど、そのたび何だかんだなんとかなってきましたし。世の中はポンコツにも優しくできていますね。」

馬鹿丸出しでそう言うと、我ながらポジティブだなあと感心してしまう。
けれど、ほんとうなのだ。たとえば、電話を落としても、警察に届くことが多かったり、機能を止めてGPSで探すとか紛失した場合の対応策がいくつも確立されていたり、保険で同じモノをお安く買えたり。

私はたくさんの優しい人に囲まれて、甘やかされて育ってきた。何か困ったことが起こっても、毎回なんとかなってきた。

「そんなことはないと思うけどなあ。」

しかし傍らの彼は、いつもなんだか愁いをひっそりと滲ませている。


「どうしようもないことや、やるせないことっていっぱいあるよ。」

有村さんは、わたしよりいくらも人生経験が豊富だ。彼の言う通り、きっとそういう哀しいことをいくつも経験してきたのだろう。

「そうかもしれませんね。だけど、いつか起こるどうしようもないことに、準備もできないじゃないですか。」

「まあねえ。」

「死にたいくらい辛い思いをすることも人生に必要な気もしますが、今は幸せなので、そんな哀しい辛いことは出来ればこのまま無視したいですね。」

もし、私が想像も及ばないような「どうしようもないこと」を経験すれば、有村さんのように、素敵な色っぽい人になれるかもしれない。へらへら笑っているだけではなくて、少し付き合っただけでは到底掴みきれないような、人間的な深みなんてものが生まれるかもしれない。

「まあ、誰だって幸せていたいからね。だけど、すごく哀しいのって、結構良いもんだよ。」

ふふ、とかっこよく優しく笑う有村さんに、やっぱり私はまだまだ子供なんだなあ、なんて思う。

「そんな感じはしませんけどねえ...」

うーん、と唸る私を見ながら、有村さんが声色を少し明るくして言った。


「ねえ、XXXちゃんは、どんなときが幸せ?」

私は、私の経験しうる限りの幸せを思い起こしてみる。

「天気が良かったり、うまくお化粧ができたり、美味しいものを食べたり、ぐっすり眠れれば、もうそれだけでも幸せですね。」

「うん。」

「今日なんて、天気がいいし、素敵な映画も見られたし、ご飯も美味しいし、本屋さんにも寄れたので、言うことなしですよ。困ったことはひとつもありません!」

「うん、なるほど。」

まるで保護者のように穏やかに相槌を打つ有村さんを見て、笑顔だけれど何を思っているのかさっぱり分からないな、と思った。

これが不思議なところで、いつも彼はなんだか意味深に見えるのだ。
色んなことを話して色んな顔を見せてくれるけれど、ほんとうはどんなことを考えているのか分からないな、なんて思わせてしまうのだ。

彼の笑顔は、疑う隙もなく、とっても美しいのに。

有村さんの笑顔を見つめていると、彼は1度ゆっくり瞬きをして、視線を進行方向である前に向けた。
私は、今度は彼の横顔を見つめる。

「つまり、天気が良くて、お化粧がうまくいって、ご飯が美味しくて、ぐっすり眠れたら、それだけで幸せになれちゃうんだ。」

「はい」

「でもね」

有村さんが立ち止まる。

「実際の天気なんて関係なく、大雨の日みたいに頭が重くて、どんな風に何回お化粧をしても自分の顔が気に入らなくて、ご飯が喉を通らなくて、夜も眠れないなんてことになったら、どうなっちゃうの?」

つられて立ち止まった私に向き直って、優しい笑顔で私を見下ろし、問い掛ける。
なんだかいつもと違う顔だ。私は、緊張した。

「......」

「そんなこと起こるはずない、なんて思う?」

「.....はい。」

私は、今までそんなことを経験したことがなかった。お腹はすぐに空くし、ご飯はいつだって美味しいし、いつだって眠れる。

「ところが、それが起きちゃうんだなあ。」

「私にも?」

「もちろん。僕、いつもにこにこしてる幸せそうなXXXちゃんってすごく魅力的で好きだけど、やっぱり、それだけじゃ物足りないよ。」

そう言って、有村さんは一歩、私に近付き、顔をもたげて額を寄せた。
暖かくてまあるい、白い有村さんのおでこが、こつんと私のおでこにぶつかる。

あまりに近い。私はびっくりして、思わず息を止めた。

「僕が、とびきり哀しい話を教えてあげる。せっかくこんなにいい天気なんだから隣にあの人がいてくれればいいのに。あの人が目を離せないくらい、もっと可愛くなりたいのに。胸が一杯でご飯が食べられない。気になって夜も眠れない。なんて、そんな風にしてあげるよ。それで、毎日幸せだなんて言っていられなくなって、わんわん泣いてごらんよ。」

有村さんが目を閉じる。
すりすり、と額を擦り合わせる。私の胸は既にいっぱいで、鼓動がどんどん早くなる。

「ありむらさん」

たまらず、助けを求めるように名前を呼ぶと、長い睫毛を震わせながらゆっくり目を開けた有村さんが、そっと顔を離して、また優しい笑顔で私を見下ろした。
やっと少し離れた距離に、ちょっとだけ安堵してふーっと息を吐く。

額が、熱い。


「幸せで安定した心が、乱れる準備はいい?」

そう無邪気に問い掛けて、にこり。
まだ返事もできていないのに、有村さんは躊躇いもなく、私に口付けをした。







とびきり哀しい恋の話を聞かせて

君が悲しくなるために
僕に抱いた恋心を、
とびきりひどく傷付けるからね。



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