イリュージョン〜幻戦争〜
□1章 “無”(アーク)へ T
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あれからどれだけ落ちただろうか。
いや、もしかしたらずっと同じ場所に漂っているだけなのかもしれない。
【床がない】という非日常的な状態に、早くも体は適応しつつあった。
人間って奴は便利なものだ。
暗闇に包まれているはずなのに、自分の体ははっきり見えるし、一緒に落ちたこの見知らぬ青年もはっきり見える。
少し質素な民族衣装のような服をまとっているその青年は、一言も喋らずにただ一つの方向をずっと真っ直ぐ見据えていた。
聞きたいことは山ほどあるが、あまりにその表情が真剣なので話しかけていいものか分からず、俺もとりあえず黙っている。
健康そうな褐色の肌、フレンチベージュの短い髪。身長は俺と変わらないから、178cmくらいだろうか。
年齢は俺よりも1つか2つ若く見える。
その時、青年の目が何かを見つけたように動き、見据える先にすっと手を伸ばし何かを呟き始めた。
何を言っているのかまでは聞き取れない。だが、俺の知っている言語ではない気がした。
青年が呟き終えると同時にふっと辺りの景色が変わった。
木で作られた小屋の中だ。不思議な紋様があしらわれた絨毯の上に、立っている。
【床がない】状態から【床がある】状態へと変わったはずなのに、体は何の違和感も無く適応していた。
人間って奴は便利なものだ。
青年はふぅ、と息をついて俺に向き直った。
「紹介が遅れて悪かった。俺の名前はセルマだ、よろしくな」
人懐っこそうな笑顔で手を差し伸べられ、ほとんど条件反射で握手を交わす。
「お前の名前は知ってるから、名乗らなくていいぜ。守藤 陸」
…そうだ。闇に落ちる寸前にも確かに名を呼ばれた。
「なんで俺の名前知ってんだ」
「だってお前は大事な“選ばれしお客様”だからな」
「“選ばれしお客様”・・・?」
ちょっとまて、俺の脳みそが追いついていない。
いきなり俺の日常の中に現れて、いきなり意味の分からんところに連れて来られて、俺はお客様。
「まぁ、混乱するのも無理ねぇよな。とりあえず状況を説明する」
「・・・あぁ」
セルマと名乗るこの青年は腰に手をあて軽く咳払いをし、説明を始めた。
「ここは、陸が今まで居た場所とは違う世界だ」
「違う世界?」
「あぁ。正確に言うと裏側の世界。今まで0と1ではどっちが大きかった?」
「・・・1、だよな。普通に考えたら」
「はは、本当にそうなんだな。ばぁが言った通りだ」
セルマは小さく笑い、何度も頷いた。
何か変なことを言ったかと、思わず考え直してしまう。
「どういうことだよ」
「1が0より大きいのは、お前が今まで居た“有の支配する世界”での道理だ。
ここは“有の世界”とは相対する場所。“無の世界”」
「無・・・?」
「そう。ここでは0より−1の方が大きくて、1は−1よりも価値が小さい“無の世界”だ」
…分かるような、分からないような。
頭がフル回転して状況を掴もうとしているのを感じる。
「つまりは夢と幻が支配する場所。俺たちの最も重要な財産は言葉だ。
人々は言葉によって紡がれる夢や物語、歌で食料や物を得る」
「…貨幣を使わねぇのか」
「貨幣…あぁ!物々交換に使うっていうあれか!使ったことねぇよ。
ラールじゃぁ金は相当価値をもつらしいが、俺たちにとっちゃその辺に転がってる石と大差ねぇしな」
金も石ころも同じ?
次々と俺の中に張り付いていた常識が剥がれ落ちていく。
逆立ちしてる気分だ。
「実在している“物”に、価値の差は無い。俺たちはその存在そのものに価値を見出すんだ。
極端に言うとな。俺たち生き物が価値を持つのは、そこに心が在って生きる中で色んなものを学んだり成長したり出来るからだ。
死んで中身が無くなった体は、そこに存在するだけのただの“物”だろ。
だから死体と石だって俺たちにとっては同じだ。分かるか」
「…なんとなく」
「まぁさすがに死体を邪険にしたりはしねぇけどな」
理解はしたが、まだ雲を掴んでいる感じだ。
どうもしっくり来ないのは、今まで生きてきた過程故だろう。
「だからここでは、心の在り様によって貧富が決まる。
ようこそ、無の世界“アーク”へ」