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下弦の月
そのとき“月”は、幸福を噛み締めていた。
何という思いがけない人生を、神は我に与えたもうか。
人間としての、授かるべき感情、抱かざるを得ない感情を、この短期間、自分は存分に味わった。
そして今、こんなにも高い場所で、堂々とこの、哀しいほどに果てしなく、美しい夜空に抱かれることができる。
“月”は両手を広げて、何十メートルも低い世界に佇む人間たちに、静かに叫んだ。
僕を、受け止めて。
それは、天の声のように。
人里離れた緑の地に、四ノ宮家はあった。
牧場であるその土地は、都会の喧騒とは違う賑やかさがある。たとえば、牛や豚の鳴き声。小鳥のさえずり。
人の声といえば、決まって子供の声。
子供の声は二つあって、それも、到底聞き分けられないもので、重なったり、ばらばらになったりして、自然の地を駆けずり回る。
たまに、大人の怒号が響いたりする。
「こういう冗談はやめろと、前も言ったはずだ」
今思えば、残酷ないたずらだった。父と母が声を荒げた。
大人をからかうものではない、と。
「ごめんなさい。僕が那月です…こっちが、さっちゃん」
子供は双子の兄弟だった。
那月と砂月。
両親ですら、外見で二人を判別することができない。
見分けるために、彼らは兄である那月に、眼鏡をかけさせた。
付け足しみたく他の理由を挙げるならば、那月のほうが砂月よりも、目が悪かったのだ。
二人はいつしか、眼鏡を交換することで、双子の交換を覚えた。
正確には、那月が、砂月のためを思って、提案した遊びだった。
「ごめんね、さっちゃん」
二人がヴァイオリンを習い始めて、1年ほど経った頃だろうか。
那月が口癖のように、弟の砂月に言うようになった。
双子に対しての、周りの評価が、その優劣が明確になってきて、事あるごとに、比べられることがあって、
その度に、那月は砂月の顔色を伺っては、時に涙を流して謝罪するのだ。
「さっちゃんは、何もわるくないのに…本当に、ごめん。僕が…僕がさっちゃんだったらいいのに…」
きっかけはヴァイオリンだが、恐らく生まれた時から、両親は無意識に、この兄弟に差をつけていたに違いない。
彼らの話では、那月は赤ん坊の頃からニコニコして、人懐っこく、周りの大人に好かれていたのに対し、
砂月は無愛想で、大人から与えられる、所謂ご褒美というやつに、見向きもしない、笑わない、全く可愛げのない子供だった。
ヴァイオリンに関して、何の先入観もなしに、二人の音を聞いたなら、才能の優劣はつけ難いほど、
彼らの音楽的センスは文句なしだった。
それが、コンクールでは決まって、那月が優勝し、砂月は準優勝どころか、表彰すらされなかった。
クラッシック界の人間にとったら、砂月の音は、ひどくぶっきらぼうで、下品で、一言で表せば、「騒音」。
ヴァイオリンの講師は那月贔屓であったし、審査員も、その講師から話を聞いていたこともあって、
評価は偏っていた。
「なっちゃん、おめでとう」
両親も講師も、那月をベタ褒めだった。後ろに砂月がいることもお構いなしに。
那月はちらちらと砂月を気にしていたが、砂月は目を合わせず、那月に寄ってくる大人たちに逆らって、やがて人ごみに紛れ、
何処かへ行ってしまった。
「待って…さっちゃん、待ってよ」
消えそうな声で、那月は既に姿のない砂月に手を伸ばす。
トロフィを片手に、那月は大人たちの祝福を振り払い、弟を追いかけた。
会場にはいなかった。扉を開くと、外は夜だった。こんな暗い中、ひとりでどこへ行ったのだろう。
那月は息を切らせて、必死に走った。途中でつまずき、トロフィを落としてしまう。傷がついた。
自分も両膝に傷を負った。角の鋭い石コロが、皮膚を裂き、肉を抉っていた。
痛い。でも、君の痛みに比べればこれくらい。ねえ、さっちゃん。
砂月は、会場から離れた公園の、木陰に身を潜めていた。
見つけた瞬間、那月は嬉々として声をあげたが、砂月からの反応はない。
砂月だって、自分と同じ子供だ。
こんなに小さくて、あんな扱いをされて、平気なはずがない。
砂月は、膝を抱えて静かに泣いていた。
「さっちゃん…ごめんね…」
那月が横から、砂月を抱きしめる。
砂月は那月のぬくもりを感じると、途端に子供の甘えが出たのかもしれない。声をあげて泣き始めた。
悔しくないわけがない。那月に対して、何の嫉妬も、負の感情も、持たないわけがない。
大人たちが憎くないわけがない。自分の人生を呪わずにはいられない。
「那月…どうして…?」
「さっちゃん…?」
「どうして…僕は…生まれてきたの……僕は……いないほうが、いいよね…?」
どうしようもない気持ちで、砂月は問いかける。
この世のすべてを恨めたら、もっと諦めがついたかもしれなかった。それなのに、この兄は。
那月は。
「それならさっちゃんだけ生きて。僕はさっちゃんがいなくなったら耐えられないもの…僕がいなくなって、
さっちゃんが幸せになるんなら、そうしたい…」
計算や世辞なんて程遠い、そんな不器用で、誰よりも純粋で、繊細な兄だったから。
「兄ちゃん…」
どうして双子として、生まれてきたんだろう。
こんな人柄の兄と、別の形で生まれて、いい関係を築きたかった。
「さっちゃん…これ」
ふと手に置かれたものを見て、砂月は那月をまじまじと見返す。那月はうんと頷く。
それは、那月の眼鏡だった。
「今から那月は砂月に。砂月は那月になって、会場に戻る」
何を言い出すのかと、開きかけた口を那月に塞がれる。
「さっちゃんだけがこんな思いをするのは、不公平だよ…だから交換っこしよ」
「そんなこと、できるわけない…」
「できるよ。だって、那月は砂月。砂月は那月。どっちもいなくなれないし、どっちでもあるんだよ…。
君のなかに、那月はいて、僕のなかにも、砂月がいる。こういう関係なんだよ。さっちゃん、だから遠慮なく、
那月を借りて。僕もさっちゃんを借りる」
那月の言葉に、砂月はおろかにも、夢を見てしまった。
那月に対する憧れ。きっと那月になれば、幸せになれるのでは、と。
那月も砂月も、やはり子供であった。
何も知らない、それがこの世の地獄、という言葉が似合うほどの、残虐な取引だということを。
「なっちゃん、どこ行ってたのっ」
会場に戻るなり、母親に泣いて抱きつかれた。
大人たちが自分に近づいてきて、よかったよかった、と満面の笑顔で迎えてくれる。
ああ、子供って…子供ってこうされるんだ。
「おかあ、さん…」
“那月”は、歓喜に震えあがった。
こんなふうに、抱きしめてもらえるんだ。こんな、ぎゅっとして、強い力で。あったかい。
那月になっただけで、こんなにも待遇が違う。
嬉しい。この時は、その感情のみが溢れていた。
「お前、一体どこをほっつき歩いていた」
次に聞こえたのは、父親の怒声で、思わず肩をびくつかせた。
会場の扉の端に、膝小僧を血で濡らした“砂月”が立っていた。片手に汚れたトロフィを持って。
「これは那月のだぞ」
ぐいっと、父親が凄まじい剣幕でそれを取り上げる。すぐさま“砂月”の頬に、平手が飛んだのだ。
あ、と“那月”は胸を刺される思いがした。
「全く、お前はいつもだんまりして…」
呆れた物言いで吐き捨て、“砂月”に背を向け、大股でその場を後にしてしまった。
“砂月”はというと、下を向いたまま、涙ひとつ流さず、いつものようにただ沈黙を守ったままの、
可愛げのない、子供だった。
那月なら、あんなことをされたら、泣いているだろうに。
『僕のなかにも、砂月はいる』
那月は、砂月になりきっている。否、なりきっているのではない。
あれは、砂月だ。
そして自分は。
「じゃあ、なっちゃん。明日はお祝いに、ケーキ焼いてあげるわね」
「ケーキ…?」
「ええ、そうよ」
無意識に、自分は砂月を見た。そうだ。那月はいつも、こんなとき、砂月を心配して伺うのだ。
そういうことか。自分のなかにも、那月がいる。自分は砂月でもあり、那月でもあるんだ。
「さっちゃんも…さっちゃんも一緒に」
「なっちゃんは優しいわね」
よしよし、と頭を撫でられる。那月というキャラクターが、周りに愛される理由がよくわかる。
那月が?いや、自分にだって出来るじゃないか。
どうして今の今まで、この大人の母性本能をくすぐる通俗の笑顔を、少し弱った仕草を、そうした子供の振る舞いをしなかったのだろう。
那月と名乗るだけで、自分は那月と同じように、それもすべて演技、という苦痛なものでもなく、
自然にやってのけるほどの技量があるにも関わらず。
眼鏡をしているだけで、父と母は、人が変わったように自分を愛してくれる。
那月は、眼鏡を外しただけで父親に手をあげられた。
しかし、そこに立っている那月は、まるで最初から砂月であるかのように、父の叱咤に怯む様子もない。
「なっちゃん、いらっしゃい」
那月と呼ばれることが、ひどく馴染んだ。いつもは冷たい手を握り返す。
下弦の月が、今夜は出ている。
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