【腐】バディスン

□完璧なおれの世界の構築
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 僕――東條海里ーーに絵心がついたのは、小学生の頃だろうか。その頃は、お父さんのアトリエに何度か出入りする事が多かった。僕はお父さんの事が好きだった。僕は色の違う目の事で周りからとやかく言われることが多かった。お父さんは僕の目の事でとやかく言わないから大好きだった。だから敬語を使って他人と壁を作らず、くだけた口調で話せる数少ない人物の一人だった。
「父さん、これはなに?」
「これは絵筆だよ」
「ふうん」
 家は美術を生業にしていたり、心得の有る人間が多かった。だから、絵画とか立体とかそういうものに触れる事は普通の家に比べては結構多かったかもしれない。
「海里もやってみるかい?」
「うん!」
 僕は思わず大きな返事で頷いていた。絵を描いてみる。それはずっとずっと心のどこかで憧れていて、手の届かない所にあるものだと思い込んでいた物だ。届かない物が急に空から落ちて来たような気がして、僕は思わず嬉しくなる。
「じゃあ、やってみなさい。じゃあお父さんは海里の為にスケッチブックを持って来てありがとう。ほら」
「ありがとう!」
 僕はうきうきと手渡されたスケッチブックを受け取る。
「それから、これも」
次にお父さんは12色の色鉛筆を貸してくれた。
「ねえ、お父さん。僕はこれに何を書けばいいの?」
「何でも構わないさ。そこに居る鳩でも、椅子でも――ああ、なんならお父さんでもいいよ、ああ、でもお父さんを描くのはちょっと難しいかな? 簡単な物から始めた方がいいかもな。ははっ」
 お父さんは冗談めかして笑った。だけど、『できるはずがない』とか『難しい』と言われてしまうとどうしてもやってみたくなるものだった。
「できるもん! 僕、お父さん描く!」
「そうかい? じゃあ、やってごらん」
「うん!」
 僕は真っ白なスケッチブックを目の前にして、茶色い色鉛筆を握り込むようにする。そして、色鉛筆を磨り潰すようにスケッチブックにごりごりと線を描いていく。お父さんのちょっと細い目、お父さんの高い鼻、お父さんの厳しくてちょっと優しい唇、顔を丸く描いて、耳はこんな感じでいいかな、とちょっと大きめに描いてみる。
「おお、海里、良く書けているよ」
「ほんとう?!」
 お父さんに褒められて、思わず頬が緩んでしまう。
「ああ、だけど海里。ちゃんとお父さんの髪もかいてくれないと困るよ。これじゃあお父さんがハゲ坊主じゃないか」
「あっ、そうか」
 そう言えば、お父さんの髪の毛を描いていなかった。僕は改めて茶色の色鉛筆を握り直す。お父さんの髪の部分はちょっと薄くなって来ている。そう言えば、昔はこれでもさらさらのふかふかだったんだがな、って独りのときに鏡の前でちょっと残念そうに愚痴っていたっけ。
「ねえ、お父さん」
「なんだい?」
「お父さん、さっき『何を書いても構わない』って言ったよね?」
「ああ、そうだね」
 お父さんは急にそんな話を振られてびっくりしたようだったけれど、頷いてくれた。
「じゃあ僕がお父さんの髪をふさふさにしてあげるね!」
「あっはははは! ありがとう、それじゃあよろしく頼むよ、美容師さん」
 にこにことした表情で、身を乗り出してお父さんは僕の絵が出来るのを見守ってくれていた。今から思えば、あの時の落書きなんて大した事は無い物だろう。単なる子どもの落書きだ。お父さんの10年前は多分これくらいかな? と思いながら、元気いっぱいの髪を描いていく。

「――できた! お父さん、見て見て!」
 スケッチブックに描いたふさふさの髪のお父さん。僕は床に置いておいたスケッチブックをお父さんの膝元まで持っていって、お父さんにはい、と差し出した。するとおお、とにこやかにスケッチブックを胸元まで掲げ、喜んでスケッチブックの中のお父さんを見てくれた。
「おお、良く出来たなぁ、海里! これでお父さんもフサフサのハンサムだよ。かっこ良く描いてくれてありがとうな」
 スケッチブックをそっと撫でると、僕に向かってにっこりとした笑顔を向けてくれた。
「じゃあお父さん、これ、あげるね!」
「本当か? お父さん,嬉しいな」
「本当?!」
 お父さんが喜んでくれるのが、たまらなく嬉しい。
「ああ! 海里が一生懸命描いてくれたお父さんの絵だからな。大切にするよ」
「ねえねえ、今度は別の物も描いてみたい!」
「ああ、いいよ、どんどん描いて見なさい」
 僕は嬉しくて、ドアの外の風景を描いてみる事にした。

 僕は丁度部屋の外から見える桜の木を描いてみる事にした。部屋の外から見える桜の木は、春になるととっても綺麗だ。
――だけど、僕はそこに見たくない物を見てしまった。
「――っ……」
 木の下にたむろしている男達の姿。僕は彼らが好きではなかった。彼らは、僕の色の違う目の事を見ては『化け物みたいだ』とか『怖い』とか言って虐めてくる。小学生くらいの子どもなんて、違う子を見たら虐めたくなるのが普通だ。だから、僕はちょっとした虐めの餌食になっていた。彼らには、『未来の理事長』なんていう偉い肩書きは通用しない、だからたちがわるい。お父さんとお母さんも何となくそれには気づいているようだった。
「どうした、海里?」
「な、なんでもない……っ」
「そういう震えた声で言ってもなんでもないようには聞こえないぞ? ちゃんと調子が悪くなったら言うんだぞ」
 そう言って、お父さんは僕の所に近づいてくる。
「ねえ、僕……桜を描きたいんだけど、あの人達も、描かなくちゃ駄目?」
 僕はおずおずとあそこに居る人達を指差す。このスケッチブックは僕の世界なのに、ちゃんと目に映った物をすべて描かなくちゃいけないんだろうか。
「ん? そんなことはないよ。海里は綺麗な桜を描きたかったんだろう? だから、それをちゃんと描けばいいんだ。それはさっき海里がお父さんの髪をふさふさに描いてくれたのと同じ事だよ。海里はスケッチブックの中に、自分の描きたい世界を作っていいんだよ」
 お父さんの落ち着いた声とその内容に、緊張が徐々にほぐれていく。
「じゃあ、僕、描かないでいいんだね」
「勿論だとも。海里の世界を邪魔する汚いものは、スケッチブックから居なくなってもらっていいんだ」
「そう、そうなんだ……」

『海里の世界を邪魔する醜いものは、居なくなってもいい』それはお父さんの誇張だったのかもしれない。だけど僕はそれをそのまま受け取り――僕は自分の世界をスケッチブックの中に、それから立体作品の中に構築していった。
 僕の世界の中では、そういう『醜いもの』は徹底的に排除される。それから、僕の事を害さない『美しいもの』だけが、生存する事が許される。そして、少し気に入らない所が有れば改変も自由自在。僕はそういう世界をスケッチブックの上に徹底的に作り上げた。

つくること。
つくりかえること。
ここには自分だけの新しい世界を作る事が許される。
そこにはどの他者の意思も介在される事は許されない、完璧な世界。
それは現実界のように、僕を虐めるような醜い物は徹底的に排除して構わない世界。
僕はそういうことをすることが出来る世界にどんどんとのめり込む事となった。
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