公安第一課4(裏)

□契約
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「……本当にこれで良かったのか?」
「もちろんです!!」
秋葉が問うと、右隣の椅子に腰掛けていた梶原は嬉しそうに頷いた。
ここは秋葉の馴染みの店だ。
最近は訪れる回数が減ってしまったが、いつ来ても不思議と落ち着く。
ジャズが聴けて、パスタとピザが美味い。
酒もかなりの種類が揃っている。
隠しメニューは何故か辛口カレーで、初めて来た客はそれをオーダーする事は出来ない。
今日は梶原の誕生日だ。
プレゼントは何がいいだろう、と毎年のように悩んでいたところ、本人からのリクエストがあった。
『秋葉さんがよく行ってたお店に行きたいです』
そういえば、この店に梶原を連れて来た事は一度もなかった。
理由は、何となく、だ。
店主の体調と機嫌による不定休の店なので、秋葉は夕刻、電話で開店を確認した。
18時から午前2時までの営業なので、早い時間だとまだ客は少ない。
今日は金曜日だし、これから馴染みの客が増えるだろう。
秋葉はいつもカウンター席に座る。
今日もそれに倣って梶原と並んでカウンター席についた。
一見、無口で気難しそうな店主と梶原は、ものの数分で打ち解けた。
チーズの話、ドイツビールの話。
物怖じしない性格の梶原は、相手の話を引き出すのが上手い。
「やったー、このビール大好きなんです」
お近付きの印に、とレーベンブロイを差し出され、梶原はにこにこと笑った。
梶原と食事をしていると、何だかこちらまで普段よりも量を摂ったような気になってくる。
元々自分とは胃袋の大きさが違うのだろうか。
そう思っていると、まるでこちらの思考を読んだように梶原が首を傾げる。
「これが普通ですから。秋葉さんが食べなさすぎなんです」
毎年夏は食欲が落ちる。
それが分かっているから、今年は自分にしては最初から頑張っているのだが。
梶原から見ればまだまだという所か。
「でも体重減ってないよ?」
「それ、自慢気に言う台詞じゃないですからね。秋葉さんはもう少し増えてようやくスタートラインですよ。その細さでどれだけ署内の女性から怨みかってると思ってるんですか。呪い殺されるレベルですよ」
物騒な事を言いながら、梶原はパスタをくるくるとフォークに巻きつけた。



狭い店内が混みはじめ、2人が店を出たのは21時過ぎだった。
アスファルトが昼間の熱気を残していて蒸し暑い。
「ごちそうさまでしたっ!おいしかった!!」
「……他に何か欲しいものは無いの?」
何となく、秋葉は梶原に尋ねる。
「そうですねえ…無いですかねえ」
梶原の誕生日を祝うようになってから、食事だけで済ませるのはこれが初めてだ。
「ありがとうございました、嬉しいです」
部屋までは歩いて帰れる距離だ。
夜風に当りながら、梶原はいつも通りの歩調で歩く。
どちらからも言葉を発する事無く、2人は歩いた。
秋葉は何故か、初めて梶原が部屋に泊まった日の事を思い出していた。
(梶原が寝たの、床、だったな……)
今となっては考えられないし、どうして自分が梶原に対してそんなに冷徹な行動を取ったのかが分からなくなってしまったのだが。
いつの間にか梶原は部屋に上がりこみ、床からベッドに上がり、今では当たり前のように秋葉の傍にいる。
それが当たり前になってはいけない、と秋葉は時折思う。
梶原から与えられる安寧を手放したくないという思いと、それでは梶原が犠牲になってしまうという思い。
もしもいつか、梶原がこの手を離す時が来たら。
その時、自分は梶原の手を離す事が出来るだろうか。
僅かに入ったアルコールが、秋葉の思考をまとまらなくさせる。
決して酔うような量ではなかったのに、と秋葉小さく苦笑した。
部屋の扉を開けると、閉じ込められていた1日分の熱気が勢いよく玄関へと流れてくる。
「暑……」
灯りをつけ、まずベランダに面した窓を開けた。
部屋の中の温度よりは涼しく感じる程度の風が、微かに吹き込んでくる。
クーラーから冷風が流れ始めてから、梶原が窓を静かに閉めた。
「……秋葉さん」
「ん?」
冷蔵庫から浄水ポットを取り出して、グラスに水を注いでいた秋葉は、梶原に名を呼ばれて顔を上げた。
「水、飲む?それともまだ酒?」
「水がいいです」
差し出されたグラスを受け取り、梶原はそれを一気に飲み干した。
「秋葉さん」
「何」
何故か、梶原の様子がいつもと違う気がして。
秋葉は訝しげに梶原を見つめた。
「これ、受け取ってもらいたいんです」
梶原がポケットから取り出したのは、小さな箱。
秋葉が反応に困っている間に、梶原はそれをそっと開ける。
そこに入っていたのは、艶消しのプラチナリングだった。
「秋葉さん、優しいから。多分俺の事すごく心配してくれてて。俺がいつまでもここに居ちゃいけないって時々思ってますよね」
梶原の声は穏やかだ。
その穏やかなトーンは、秋葉をいつも落ち着かせてくれる。
しかし、今は違う。
秋葉は突然の事に、どう対応すればいいのか分からなくなってしまっていた。
「これが俺の意思です。あなたとずっと一緒にいたいんです」
いてもいいですか、と梶原は問う。
「えーと。これ、もちろんいつも指に嵌めててくれとは言いません。持っててくれたら嬉しいです、けど」
梶原が左手を差し出した。
梶原は覚悟を決めろ、と言っているのだ。
自分はあなたの傍にいる覚悟を決めた、あなたも幸せになる覚悟を決めろ、と。
秋葉は視線を揺らした。
その指輪がどんな意味を持っているのか、それくらいは理解している。
かつて自分も、奈穂と共に生きる契約を交わしたのだから。
『死がふたりを分かつまで』
心の中に踏み込まれるのは嫌だった。
それでも梶原はここにいる。
心を許すのは恐かった。
また失うのが恐かったから。
それでも梶原は今、秋葉の心の中に確かな居場所を確立している。
恐る恐る、秋葉は左手を梶原の方へ伸ばした。
ぎこちなく、その手は梶原の手のひらへ収まる。
「俺は、秋葉さんより最低でも1秒は長生きする事に決めました」
右手の指先で指輪を取り、まるで壊れものを扱うかのように、梶原は秋葉の左手薬指にそれを嵌める。
「だから秋葉さんは、安心して生きてください。この理論でいくと、秋葉さんは俺が死ぬとこは見なくていいですから…って、俺ばかり喋ってるんですけど」
答えが聞きたいと言うように、梶原は秋葉を覗き込む。
秋葉は契約の証を見つめた。
「じゃあ、俺は……」
小さな声は微かに震える。
「お前が死ぬ1秒前まで生きようかな……」
秋葉が言葉を言い終わらないうちに、梶原が秋葉をきつく抱き締めた。
「俺、すっごい長生きしますから。覚悟してください」
くすくすと笑い、梶原がそう宣言した。
「誕生日、俺が欲しいのは秋葉さんだったんです」
「それ…どう返せばいいのか分からない」
梶原の腕の中で、秋葉が笑った。
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