捜査共助課2(短編小説)31〜60話

□不安
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失くしてからわかるもの


失くさなければわからないもの


その笑顔も、なにもかも


それが当たり前に
そこに在るうちに


掴まえておかなければ




「これ、あげるから読んでみたら。何かの参考になるかもしれないし」
梶原は、臨床心理士をしている大学時代の先輩から一冊の本を手渡された。
冷房が効いた病院のロビーには、ざわざわと人が溢れている。
「どうしたんだ?突然。PTSDについて知りたいなんて」
彼の名を神津という。
専攻していた学部はもちろん違うので彼は梶原の直接的な知人ではなかったのだが、梶原が懇意にしていた同じ学部の先輩の友人であることから、繋がりができた人物だ。
今日は梶原が今担当している事件の被害者の女性が入院しているこの病院へ、彼女への事情聴取に来た。
その事件は若い女性に対する連続の強盗暴行事件であり、被害者も相当な精神的ダメージを受けているので聴取自体は優が担当しているのだが。
今日は陣野が本庁へ行っていて不在のために、梶原が優と組んでいる。
刑事課でも精神的にも被害を受けている事件関係者への適切な対応の仕方を最近学んでいるところで、梶原は優を待っている間に、個人的にかかわりがある神津にアドバイスを受けに来たのだ。
それだけが理由ではなく、もうひとつ気がかりな事もあって。
「あの人、元気?……秋葉さん」
ロビーから人目につかない屋外の喫煙スペースに移動して、神津は煙草に火をつけた。
梶原よりひとつ年上、秋葉よりひとつ年下の彼は、秋葉がこの病院に入院していた時にカウンセリングを担当していた。
「多分…元気、だと思います、けど」
梶原に気を使って風下に立つ神津は、秋葉に少し雰囲気が似ている。
「そう…」
さらりとした黒髪も、火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付ける癖も。勘が鋭いところも。
何となく、似ている。
「もう、来てないですか?先輩のとこには」
「あの年の秋頃に予約キャンセルしてからは来てない。あの人には記憶の問題もあったし…ちょっと気にはしてるんだけど。PTSDってその体験のかなり後から症状が出てきたりするから。…どちらにしろ本人が治療する気にならなきゃどうにもならないけど。まあ、医者にあれこれ聞かれたりするから鬱陶しいんだろうとは思うけどね」
神津はそう言った。
梶原は、しばらくの沈黙の後で口を開く。
「不眠とか、は…あるみたいです。夜勤の時もほとんど仮眠はとらないし。あと、すごく急に痩せた気がするんですけど…でも、仕事では絶対にそういう不調は見せない人なんで。俺も今は一緒に組んでるわけでもないし…あんまりよく分からなくて」
暑い屋外から、再びロビーに戻りながら梶原は呟いた。
別に神津に何かを訴えたかったわけでもないのだが、胸のうちにずっと渦巻いている不安を。
「失くしてからじゃ、遅いから」
神津は軽く笑み、呟いた。
「失いたくないなら……もし見ていて危ないと思うなら、とりあえず引きずってでも連れて来い。仕事と命とどっちが大事かって…それくらいお前にも分かるだろ」
「即答で仕事って言いそうです、秋葉さんは」
梶原はつい笑ってしまう。
それが笑い事ではないことは重々承知していたが。
「あれだけの体験してると、自分の命とか…そういうものが本当に分からなくなるんだ。自分の中でも整理がついてない事もたくさんあるだろうし。例えばもうひとつ別の人格を作って楽な方へ逃げてみたりして、段々生きている感覚が無くなって行く。でも、それに自分では気付かない。仕事に依存したり、他のものに依存したりしながら段々状態は悪くなる一方だから」
「………」
前を向いて生き続けることの難しさ。
それでも自分の足で立とうとする秋葉を、支える位置に自分は居たいと思うけれど。
「秋葉さんによろしく言っといて。お前もあまり無理をしない事」
処置室から看護師が神津を呼ぶ。
それに短く返答して、彼は梶原にそう言い置いてそちらへ向かった。
「梶原君」
背後から優が足早に歩いてきた。
「話、聞けました?」
「あまり。もうちょっと時間がかかるかもね」
顔をしかめて優はそう言った。
女性が被害者のこういう事件では、優は『怒り』を原動力にする。
いつになく近寄りがたい雰囲気を醸し出す彼女に、梶原は気圧されてしまう。
「さっさと帰るわよ。証言とATMの映像チェックして絶対捕まえてやるから」
歩幅は随分違うはずなのに、優はどんどん先に駐車場の方へと行ってしまう。
「早く!!」
途中で振り向いた優に怒鳴られる。
「あ、はい!すみません」
苦笑して梶原は足を速めた。



夕刻になり、刑事課に捜査員が報告のために顔を揃えた。
明日の朝までの勤務は陣野班、つまりは梶原や秋葉達だ。
勤務を終えて帰宅する同僚を見送り、これから明朝まで書類仕事と何か事件が起きた場合に備えての待機に入る。
「何?珍しい本読んでるんだな」
秋葉は梶原の机の上に置かれた本を目にして首を傾げた。
「…今日もらってきたんです。臨床心理士やってる先輩に」
「ふうん……」
秋葉はその本のタイトルを見ても、何の反応も見せない。
「あの……秋葉さんのこと、心配してましたけど」
「俺………別に何も問題ないけど?」
秋葉は、本当に何も心当たりがないという表情で、引き出しを開けて煙草を取り出す。
「秋葉!ここで吸わないで!」
向かい側から優が声を上げる。
「まだ何もしてねえよ……」
そう呟き、秋葉は立ち上がった。
「秋葉さん、本当に?」
「何が」
梶原にそう引き止められ、秋葉は初めて目に不快感を滲ませる。
「本当に、問題ないですか?」
「何かあったらここにいないと思うけど」
秋葉は肩をすくめて、部屋を出て行く。
その姿を見送った梶原が視線を戻すと、影平がこちらを見ていた。
優は席を離れ、部屋の隅にあるコーヒーメーカーに豆を入れている。
「あいつ、最近おかしいだろ」
「………」
「まず煙草の量の増え方が半端じゃねえ。急に痩せたし」
勤務時間の大半を一緒に過ごす影平もまた、梶原と同じように秋葉に異変を感じている。
「まあ、夏だし?この暑さで疲れてるだけならいいんだけど、な」
「そう、ですね」
秋葉が出て行ったドアをもう一度見つめ、梶原は手元に視線を落とした。
「一緒に仕事してみて初めて分かったけど。あいつすっげえ意地っ張りだし、俺にもどこか気を許してない。それだけこの仕事を続ける事に執着してるし、これ以上はマイナスの要因を作りたくないんだと思う」
影平は机の上にファイルを広げながら言った。
「誰が味方で、誰が敵か。それを的確に見定めないと警察社会では生き残れない。どこで足元をすくわれるか分からないからな」
まるで世間話をするくらいの口調で。
「あいつが俺達に知られたくないと思って隠そうとしている事があるなら、それに気付かない振りをしてやるのもいいかも知れないとは思う。俺は、あいつよりはほんの少しだけ年食ってるんでな」
でも、と影平は続ける。
「でも、お前は納得がいくようにあいつにぶつかってみたらいいよ。お前はあいつには無いものを持ってるから。もしかしたら、お前になら……」
優がコーヒーカップを手に戻ってきたので、影平はそこで言葉を切った。
秋葉に対してこういう配慮が出来る所が、影平が持つ誠実さだと梶原は思う。
梶原は唇を引き結んで、ペンを取り上げた。
長い夜の始まりだ。



080715

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