捜査共助課2(短編小説)31〜60話

□夏の嵐
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駅の構内を出ると、空に黒い雲が広がり始める。
それまでじりじりと肌を刺していた熱気が僅かに和らいだ。
一陣の風が吹いたと思う間もなく、大粒の雨が降り始める。
明るくはしゃぐ声を上げながら、学校帰りの小学生が歩道を走っていく。
赤いランドセルがその背中で音をたてて揺れるのを見つめ、秋葉はただ立ち尽くしたまま、その雨に打たれていた。



遡ること数時間前。
一本の電話を携帯に受けた。
相手は崎田だった。
相模の裁判の件で確認しておきたいことが出来たので出来れば時間を取って欲しいと言われ、13時で勤務が明ける予定だったのでその後なら、と返答をした。
指定された場所は、あのマンションだった。
秋葉が相模に監禁されていた、あの場所。
裁判が継続しているので、時折検察や弁護士が新たな物証を求めて出入りしているとは聞いていたし、実際一度崎田と共にあの部屋を訪れたこともある。
新たな物証とはいうものの。そんなものがこの段階で出てくるわけも無く。
何か弁護側が無茶なこじ付けをしてきたのかもしれない。
それを確信したのは、マンションに到着した時だ。
そこにいたのは、崎田ではなく。
相模の弁護士だった。
最初は国選弁護人がただひとりだった相模の弁護士は、いつの間にか弁護団といわれるほどに人数を増やし、問題は死刑廃止論に巧妙にすりかえられていこうとしている。
この暑い夏にきっちりとスーツを着込み、汗ひとつかいてない涼やかな顔つきで、彼はそこにいた。
(あいつには気をつけてくれ)
以前崎田にそう忠告された。
その40代の弁護士は、日本を代表する人権擁護派であり事あるごとに死刑廃止論を声高に叫んでいる。
今回も、何回目かの公判から弁護団に加わった人物だ。
「こんにちは、秋葉さん」
抑揚の無い声だった。彼はそう言って軽く頭を下げた。
どういうルートで秋葉が今日、この時間にここに現れる事を知ったのだろうか。
決してあてもなく待っていたわけではあるまい。
秋葉は警戒心を解かずに、彼に近づいた。
「そんなに怖い顔しないでください」
眼鏡の奥の神経質そうな目はそのままに、口元だけで笑う。
その不自然さが癇に障る。
「崎田検事はもうすぐ来るでしょう。その前に、少しあなたとお話がしたくて検事を出し抜いてしまいました」
「俺に、何か」
秋葉はようやくそれだけを口にした。
「あなたに、証言をするだけの力があるのかどうかを確かめに」
どういう意味か分からず、秋葉は眉をひそめる。
「もう、検察もこちら側も。裁判に対して持っているカードは正直出し尽くしかけています。精神鑑定の結果は狙い通りこちらに有利なものでしたが。最終的に無罪に持ち込みたい我々にとって、最後の脅威は秋葉さん、あなたです」
「…………」
死刑が無期に減刑されるのを目標にしているのではなく。
相模を完全に無罪に持ち込むのがこの弁護団の目的なのか、と秋葉は僅かに笑った。
「おかしいですか」
その笑いを見咎め、彼はやはり同じように笑う。
「そう……おかしいでしょうね」
秋葉の答えを待たず、彼は言う。
街路樹で鳴く蝉の声がやけに大きく聞こえる。
目眩を誘発するような、不協和音だ。
「あなたの正義は、どこにあるんですか。相模を死刑にすることですか。それで全てが終わりますか」
終わるわけはない。
自分と、被害者の遺族が一生抱えていくべきものは、そんな簡単なものではない。
正義を口にするのなら、その問いはそのまま彼に対して返してやりたかった。
お前たちの正義とは、それこそ一体何なのだと。
「相模を…二度と表に出してはいけない。俺が今、思っているのはそれだけです」
秋葉は自分の声をどこか遠くにあるもののように聞いていた。
「そのために死刑という刑罰があるのなら……それが科せられる事を望みます」
「その結果のためなら、あなたの精神を削ってでも証言することを厭わない?今のあなたはそれに耐えられますか?」
とうとう秋葉は返す言葉を失う。
話が噛み合わないどころか、彼の言葉に相当な悪意を感じた。
「あなたの証言は、非常に危うい。我々がその気になればいとも簡単に覆すことが出来ます。何故なら、あなたの記憶が本当にその体験に基づいて再生されているものなのか、あなた自身にさえ確信がないからです」
畳み掛けるように彼はすらすらと言葉を秋葉に投げる。
秋葉は一度、彼から目を逸らし言葉を探す。
「訊いてもいいですか」
そして胸のうちに生まれた疑問を口にする。
「どうぞ」
彼はそれまでの口調を和らげ、身に纏っていた攻撃性を内に収めた。
「あなたは何故、それほどまでに相模を無罪に持ち込みたいんですか。功名心ですか?それともこの裁判は、世間に死刑廃止を訴えるひとつの手段ですか?彼は3人……もしかしたら4人の女性を殺している。それでもなお、彼は無罪ですか」
自分自身の事はまだいい。と秋葉は思う。
自分はまだこうして生きていて、五感で生の世界を感じることもできる。
理由も分からないまま殺された彼女たちは、もう二度と何も感じる事はできないのだ。
「では逆に訊きますが。本当に、彼は人を殺したんでしょうか?あなたはそう言い切れますか。あなたの記憶も、警察の捜査も。全てが完璧で誤りのないものだと、そう言い切れますか」
「………」
秋葉が口を開こうとした瞬間、後ろから右腕を掴まれた。
「何してるんですか、八塚さん。彼はこちら側の証人です。検察に断りなく勝手に接触しないでください」
秋葉の腕を引き、八塚にそう言ったのは崎田だった。
そう、彼の名は八塚というのだったと、秋葉はその時思い出す。
「残念、時間切れですね」
八塚は肩をすくめ、秋葉に笑いかけた。
「秋葉さん。弁護側としても、あなたに証人申請をしたい。それでなければフェアな裁判とは言えませんから」
そう言って、彼は2人の横を通り過ぎて足早に立ち去る。
「すまない、遅くなった」
崎田の言葉に、秋葉は首を横に振った。
「……今日は、何」
なるべく事務的に呟く。
「上で話していいか」
崎田は指でマンションの上階を指した。



管理会社から借りてきた鍵で部屋のドアを開け、崎田はやはり前回と同じようにベランダの窓を開けに向かう。
その後姿を見ながら、秋葉も靴を脱ぎ廊下へと足を踏み出した。
定期的に人の手が入っているのだろう、思ったよりも埃っぽくはない。
全ての窓を開け終えると、地上よりは涼しい風が吹き込む。
「秋葉」
崎田に呼ばれ、秋葉は2部屋ある中の左側の部屋へ入る。
「悪いんだけど。この写真、見てもらってもいいか」
彼は手にしていた数枚の写真を秋葉に見せる。
それは、当時の現場検証の写真だった。
部屋の隅に転がる相模と行動を共にしていた女の死体と、血のあと。粉々に割れた蛍光灯の破片。
秋葉はその写真と現実の部屋を見比べる。
今、立っている場所が、秋葉が倒れていた場所だ。
「弁護側が……何を言い始めた?ここに俺を呼び出したって事は、そういうことだろう?」
崎田より早く自分に接触しようとした弁護士の行動がそれを裏付けている。
「あいつらは何を?」
秋葉は呟いた。
「ここで死んでいた彼女が…3人の女を殺したのではないか、と。そしてもう逃れられないと覚悟して、拳銃自殺」
崎田は足元に視線を落とす。
検察はいつも、こうして事件の跡を辿ることしかできない。
事件が起きてから動く警察よりも、更に後から事件を追う。
死体も、目に見える物証も、何もない場所で。
「新たに被害者の傷口と彼女の体格を照合して、な。裁判前に記者会見を行うってよ」
「根本的にそこから覆すつもりか」
本当に、怒りが許容範囲を通り越してしまいそうだ。
秋葉は笑うしかなかった。
「お前が、最後に意識を取り戻した時……」
「………もう、彼女は死んでた……。死んでたと思う」
秋葉は目を閉じて記憶を辿る。
彼女は猫のように身体を丸め、銃は、相模が握っていた。
「銃声は」
「聞いてない。それで意識が戻ったわけじゃなかった。相模が……言ってた。彼女は自分で死んだ、と」
『馬鹿な女だなあ…』
相模の声が聞こえた気がして、秋葉は唇を噛み締めた。
「相模の手から…硝煙反応は出てたけど……」
秋葉はそう言った後で、それが無意味なものであることに気付く。
相模はその後一度、この場で発砲している。
「なあ、崎田……」
秋葉は写真を崎田に返しながら呟く。
「俺は………」
じわりと喉を締め付ける息苦しさ。
この苦痛から全てを捨てて逃げてしまえればどれだけ楽になるだろう。
いや、本当にそれで楽になれるだろうか。
それが分からないのならば、自分は逃げるわけにはいかない。
それだけの一念で秋葉は今生きている。
ただ、記憶を失ってから常に自分の中にあるひとつの不安。
自分の記憶は本当に、何一つ違わずに蘇生されているのだろうか。
常に自分に付きまとい、その度にどうにか振り払ってきた不安に再び取り憑かれる。
「俺は……どうすればいい」
「何度も言うけど……友人としてはこれ以上、お前の傷口を広げたくない。でも……」
精神鑑定の結果、彼に責任能力は無いという信じがたい結論が示された今。
「検事としては……」
言葉を続けられない崎田に秋葉はふと笑って見せた。
「ごめん、本当は分かってるんだ。もうこれ以上、どこにも逃げ場はない事も分かってる」
それこそ、ここまで逃げ続けた自分に残された逃げ場所は、狂う事くらいだ。
だが、秋葉は自分が周囲の理解に恵まれていると感じている。
これ以上はそれを裏切ることも出来ない。
「もう、逃げても仕方ないって…分かってるから」
崎田もその言葉に僅かに笑みを見せた。
「これ、見てみるか…?」
崎田はそう言って、鞄の中のクリアファイルからA4サイズの少し厚めの白い紙を取り出した。
「何……」
それは絵だった。
秋葉はそれを見た瞬間に、それが誰の手によって生み出されたものかを理解する。
「精神鑑定から今日戻ってきた」
深い闇の底を覗いたような気になった。
暗い色ばかりを重ねた、混沌とした世界へ引きずり込まれるような。
その奥に、一点だけ落とされた、どす黒い赤。
「俺にはどう見ても…正常な人間の書く絵にしか見えない。少なくとも、相模は狂っているわけじゃない」
「そうだな」
崎田の言葉に秋葉は頷いた。
混沌の中に、こんなにもはっきりとした欲求が表されている。
『お前を殺してやる』と。
そのための赤い色。恐らくは自分の血液を使ったのだろう。そこだけ質感が違う。
秋葉にはそれが相模の意思表示であることが分かった。



崎田とはマンションを出た所で別れた。
秋葉は重い足取りで駅に向かう。
(もう、逃げるな)
自分に言い聞かせながら。
電車と地下鉄を乗り継ぎ、自宅へと向かう。
『あなたの記憶は、本当に全て誤りのないものだと……言い切れますか』
ふと八塚の言葉が甦ったのは、自宅近くの駅の構内から出たときだった。
強い日差しに目がずきりと痛む。
その太陽を、黒い雲が覆い始めた。
「…………」
アスファルトの上に影が出来始める。
嵐の前触れのような風が吹き、ぽつりぽつりと大粒の水滴が足元に落ちた。
「………知るかよ…」
秋葉は呟き、その場で立ち尽くして雨に打たれながら呟く。
一体誰が、この記憶を肯定できるというのか。
この寄る辺のない不安定な心細さは、誰にも、どうしようもない。
自分自身にでさえ。
だからこそ逃げるわけにはいかないのだと、秋葉はもう一度自分自身に言い聞かせる。


急に降り出した雨は、まだしばらくやみそうにもなかった。



080717

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