捜査共助課2(短編小説)31〜60話

□淡い記憶
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夏になると出会う


あのにおいが好きだった


何処に還ろうかと迷う


記憶の片隅をくすぐる


天花粉のにおい




「柊兄ちゃん!!」
玄関のドアを開けた瞬間に、彼女は廊下を走って秋葉に飛びついてくる。
「………来てたんだ?唯」
その小さな身体を抱き上げて、秋葉は微笑む。
ふわり、と何か懐かしいにおいを嗅いだ気がする。
「よう、お帰り」
奥の部屋から比呂が顔を覗かせた。
「ただいま」
唯を抱いたまま、秋葉は靴を脱いで廊下に上がった。
「兄貴、今日休みなの?」
「今日日曜」
即答されて、苦笑する。
曜日の感覚など、最近はどこかに行ってしまっていた。
「ああ、日曜か。どおりで電車が混んでなかった」
勤務があけ一度部屋に帰り、着替えをしてから実家へ来た。
珍しく、父親の貴之から電話があったのは数日前の夜。
『押入れの整理をしていたら、昔の写真がたくさん出てきたから。ちょっと帰ってこないか』
という内容だった。
近くに部屋を借りている比呂一家がここに来ているという事は、同じように連絡が行ったのだろう。
唯は秋葉に抱き上げられたまま、居心地がいいのかそこから降りようとはしない。
秋葉が比呂に促されてリビングの椅子に座っても、その膝の上に立ち、秋葉の首に両手をまわしている。
「柊兄ちゃん」
「何?」
唯は小さな手で秋葉の頬に触れ、自分の額を秋葉の額にこつん、とつけた。
「ごあいさつ」
「……ん?何?保育園で流行ってるの?」
秋葉は唯の頭を撫でて問う。それを見ていた比呂が笑った。
秋葉の前に、麦茶を入れたグラスを置く。
「猫、だよ」
「猫?」
首を傾げる秋葉に、唯がもう一度同じ行動を繰り返す。
「猫はね、こんにちはのごあいさつするのに、おでこをくっつけて、するの」
そういえば、秋葉もどこかで見たことがある。
仲の良い猫同士が額をつけて甘えている姿を。
子供は成長の過程をずっと見ていると本当に面白い。
興味のアンテナを張り巡らして、唯にとっても、きっと世界はまだまだ不思議だらけのはずだ。
「唯は本当にお前の事が好きだから。子供に好かれるって結構大切な事だと思わねえ?」
比呂は、滅多に見る事のできない秋葉の穏やかな表情を見て、そう言った。
「子供って、相手が敵か味方かを本能で嗅ぎ分けるから」
「………そういう意味では唯も猫の仲間かな」
秋葉は呟いて、唯の背中を撫でた。
また記憶の片隅に微かに触れる、あのにおい。
「これ、なんのにおいだっけ」
秋葉は比呂に問う。
「……ん?ああ。天花粉……ベビーパウダーだよ、多分。こいつ、夏場はあせもがひどくてな。さっき水浴びした後でつけたから」
「ああ……そのにおいか。何か懐かしいにおいだなと思って……」
「子供の頃の夏ってさ、何かいろんなにおいで覚えてるよな?」
そう言って、ひとしきり2人は夏に関する記憶を出し合った。
「おい」
貴之が部屋に入ってきたのはその時だ。
「あ……ただいま」
秋葉の表情が少しだけ固くなる。
貴之はそれを気にする風もなく、秋葉の横を通るついでにその頭をひと撫でした。
「何……」
「別にいいだろう。親が子供の頭を撫でても」
「それは、別にいいけど」
小さく呟く秋葉の頭を、更に唯が撫でた。
「お前は真似しなくていいの」
どうにもこの場所は調子が狂う。
秋葉はそう思い、隣に座る貴之を見た。
「元気か」
「………うん」
貴之と目が合い、秋葉は強張りそうな唇を笑みの形にして見せた。
「少し痩せたんじゃないか?」
「そうでもないと思うけど」
普段の生活が独りのせいなのか、こうして家族と一緒に過ごしているとそれが自分にとって居心地が良いのか悪いのか、分からなくなってくる。
秋葉は助けを求めるように向かい側に座る比呂を見た。
「親父、電話で言ってた写真は?」
弟の無言の求めを的確に察した比呂は、そう言って貴之に本題を切り出す。
「ああ、2階に置いてある。貴美の部屋に。見てくるか?」
「うん。柊、行こう」
比呂が立ち上がり、秋葉を促した。




「うわ、マジで古いわ、これ」
アルバムを開き、比呂が声を上げた。
もうこの部屋の住人はここにはいないのだが、それでも母が季節に合わせて窓際には風鈴を吊るし、床には藺草のマットを敷いている。
秋葉と比呂は、その上にアルバムを置き、床に寝転がっていた。
「藺草のにおいも夏のにおいだな」
秋葉は比呂の言葉を聞きながら頬杖をつき、アルバムをめくる。
「そうだな……痛いって、唯」
その背中には唯が乗っていた。時折退屈になって秋葉の頭に噛み付いて来るのが困る。
「唯、これ、お父さんが赤ちゃんの頃の写真」
見かねた比呂が、唯を床に降ろした。
唯は秋葉と比呂の間に、2人と同じように寝転がる。
ふわり、と広がる天花粉のにおいがくすぐったいようで心地いい。
「お父さんも、赤ちゃんだったの?」
その素直な感想に、秋葉は笑う。
子供にとって、親は生まれた時から大人であり、親なのだ。
自分と同じような時があったのだという事は、普段からあまり意識はしないだろう。
初めは両親や祖父母と比呂だけの写真だったが、そこにやがて秋葉が加わり、貴美が加わっていく。
こうして家族が形を成していった過程を、秋葉はただ見つめていた。
「これが、柊兄ちゃんで。これは貴美ちゃん。これは唯のひいおばあちゃん」
比呂が写真を指しながら、唯に伝える。
「ひいおばあちゃん、て、なあに?」
「おばあちゃんのお母さん」
こうして命は繋がり。血は比呂から唯へとまた伝わっていく。
「あせもってさあ…俺たち兄妹もひどかったんだよな」
比呂の呟きに、秋葉はアルバムをめくる手を止める。
「そうだっけ……」
「そうだよ。お袋がさ。風呂上りに順番に、天花粉パタパタはたいてくれたよな」
嗅覚が不意に記憶の蓋を開ける事がある。
突然色鮮やかに甦る、夏の淡い記憶。
「ああ……そんなこともあったかなあ……」
秋葉はふと笑んで目を伏せた。
「お前、何で親父やお袋と会うとそんなに身構えるの」
ようやく秋葉の表情が和らぐのを確認して、比呂が呟いた。
問い詰めるという意思もなさそうに、ただの呟きのように。
「家族なのに」
「……そうだね」
こうして写真を見ていると。
この人たちから自分は生まれ、この人たちに育まれて生きてきたのだという事が分かる。
それは自分の記憶よりも客観的な事実。
「親父には絶対に内緒にしとけって言われたんだけどさ……」
比呂はふと声を潜めた。
まるで子供の頃、内緒話をした時の仕草のようだ。
「あの時、輸血しただろ?」
「………ああ」
あの時、というのは。あの4月の出来事の事だ。
「その中に、親父と俺の血も入ってるから。400mlずつ」
秋葉の身体から大量に失われた血液を補うには、もちろん輸血という方法しかなかった。
輸血の血液は既に手配されていて充分に足りてはいたのだが、貴之と比呂は自分たちの血液も使ってくれと医師に申し出た。
血液型は同じだし、例え少しでも身内の血液を使ったほうが負担は恐らく少ない。
ただ、生きて欲しいという願いが伝わるように。
絶対に死なせてなるものかという想いが伝わるように。
貴之と比呂はそれだけを願って輸血用の血液を採取してもらった。
「お前の中に、さ。今も間違いなく流れてんの。親と子、兄貴と弟って証拠が」
言葉を失う秋葉に、階下から比呂を呼ぶ母の……周子の声が聞こえた。
「あ、お袋帰ってきた。買い物行ってたんだ朋香と。ちょっと唯の事頼むわ」
比呂はそう言って起き上がった。
ふと見ると、唯は眠ってしまっている。
窓を閉めてクーラーをかけていたのだが、一度だけ風鈴が軽やかな音をたてた。
秋葉も頬杖をやめて横たわると、唯と向かい合わせになりその柔らかい髪を撫でる。
その黒い髪は、唯が自分とも血縁関係があるのだと思わせた。
小さな寝息に誘われるように、秋葉も目を閉じた。




「親父、ちょっと…」
周子の用事を済ませ、2階に上がった比呂が足音を忍ばせて再び1階へと降りてきた。
「何だ」
「いいから。静かに来て」
比呂に手招かれ、貴之は同じように足音を立てないように2階へ上がる。
「ちょっと、見て。かわいいから」
貴美の部屋のドアをそっと開ける。
そこで眠る秋葉と唯の姿を見て、貴之は笑みをこぼす。
2人のあどけない寝顔が、よく似ている。
「風邪をひくといかんな……」
そう言って貴之は、隣の部屋から1枚のタオルケットを手にして戻ってきた。
そっと2人の身体にそれをかけてやり、クーラーの設定温度を2度程上げる。
「こうやって見てたら…何も変わってないのにな…」
眠る息子の髪を撫で、貴之は呟いた。
「何も、変わってないよ。俺たちはずっと親父の子供だから。あと、ごめん、輸血の話、柊にばらしちゃった」
比呂は貴之にそう言った。
「そうか……」
貴之はただ微笑み、部屋を出て行った。




真夏のにおいは


淡い記憶を呼び起こす



080724

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