捜査共助課2(短編小説)31〜60話

□柔らかな羽
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力強い翼でなくてもいい

例えば

そう

柔らかで透明で

軽やかに風に乗る

あの羽が欲しい




ゆらゆらと陽炎が立ち上る。
(ああ……出掛けるんじゃなかった……)
村上沙希はそう心の中で呟きながら、歩道を歩いていた。
日陰もなく、じりじりと肌が焼かれている気がする。
気がするだけではなく、実際焼ける音がしそうな程に暑い。
カーキ色のタンクトップと、生成りの綿のスカートを着て、足元はかかとがあまり高くないミュールを履いている。
(日焼け止めなんて効かないかも……)
そんな格好をしてはいるが、沙希は日焼けするのが好きではない。
夜行性の生き物を自負している彼女が、こんな午後にこうして外出しているのには理由がある。
長く伸ばしていた髪を、切ったのだ。
脱色と染色をくりかえした髪は、とんでもなく傷んでいた。
毛先を揃えるだとか、そういう生ぬるい対処ではどうにもならないところまで来てしまったので、どうせ夏休みだしイメージチェンジもいいだろうと思い立ったのが昨夜。
朝一番で馴染みの美容室に予約を入れ、『とうとうカタギに戻るのか』と店員にからかわれながらばっさりとショートにしてしまった。
ついでに、茶髪を通り越して金髪になっていると言われていた髪の色も、黒に染めた。
これでしばらくは、知人と道で擦れ違っても誰も沙希だとは思わないだろう。
沙希は少し愉快な気分になりながら、手にしたかごバックをぶらぶらと振りながら歩く。
何となく、このまま帰宅するのもつまらない。
そう思い、地下鉄の駅を降りて自宅とは反対方向へ彼女は歩いている。
何度連れてこられたか分からない、大塚署の側まで来て沙希は足を止めた。
(誰かいないかな)
隣のコーヒーショップを通り越しに覗いてみたものの、そこに見知った顔はない。
「夏休みなんて子供だけだもんね……」
沙希は呟き、細い路地を渡る。
大塚署の入り口の階段まで来たが、そこを上がる気にはならなかった。
だいたい、今日自分が知っている職員がいるとも限らない。
(帰りますかぁ……)
かつん、とミュールが音を立てる。
「影平さん、これ備品係に持って上がってください」
「ええええ、面倒くさい」
ふと薄暗い駐車場から声がした。
沙希は再び足を止める。
「影平さんが壊したんでしょうが。備品係に申請しといてください。これがないと現場検証できないでしょ」
「ええええ、それって俺の役目かなあ……」
そう言いながら、沙希の横を手ぶらの男性が通り過ぎ、階段を上って行った。
「………全く……」
続いて苦い表情で、何やら黄色いケースを手にした秋葉が現れた。
歩道で立ち止まったままの沙希に、一瞬怪訝そうな視線を向けたものの、秋葉も何も言わずに沙希の横を通り過ぎてしまう。
「………秋葉!!」
沙希はにんまりと笑みを浮かべ、階段を上がり始めた秋葉を振り返らせるべくいつものように彼の名を呼んでみた。
「………?」
秋葉は沙希の思惑通りに足を止めて振り向いたものの、きょとんとした表情で辺りを見回している。
そんな素の表情は滅多に見られるものではないので、沙希は尚更愉快になった。
「おーい、秋葉ぁ」
右手を振ると、ようやく秋葉が沙希を見つける。
「………お前、誰」
「私よ!!」
笑みを浮かべた秋葉に、沙希はもう一度手を振った。
秋葉は階段を降りて、しげしげと沙希を見つめる。
「びっくりした!?」
「これじゃあ誰にも分からないんじゃない?……驚いた。髪の長さと色だけでこんなに違うんだな」
短くなった黒髪をひと房つまんで笑う沙希に、秋葉は素直に感想を述べる。
「かわいい?かわいいでしょ?服も大人っぽいでしょ?」
「………それはかわいいって言えって催促か」
苦笑して秋葉は左手を伸ばして沙希の頭を撫でた。
「かわいいかわいい。数倍賢そうに見えるし」
「ひどっ!!夏休みの宿題だって終わったんだから!!」
今日は8月1日だ。
実は、沙希は小学生の時から夏休みの宿題は7月中に終わらせる、という主義を貫いている。
中身の正否は別として、とにかく全教科7月中に片付けてしまうのだ。
一度調子にのって日記まで最初の数日で書き上げてしまい、親にこっぴどく叱られたが。
長い夏休み、せっかくの帰宅部。
多少補習に取られるとしても、宿題にまで時間を取られてはもったいない。
「今日からが私の夏休み!!」
自慢気に胸を張る沙希を見ていた秋葉が、ふと何処か痛みを含んだ目を見せる。
「………どうかしたの?」
沙希は敏感にそれを感じ取り秋葉に問うが、その表情は一瞬で消えてしまう。
「私、誰かに似てる?今、秋葉…そんな顔した」
秋葉は苦笑して、もう一度沙希の頭を撫でた。
「違う。誰にも似てない」
「そう?」
沙希は口を尖らせる。
秋葉は笑みを収めながら、ふと沙希の右肩を見た。
「お前ここに来る前、何処に行ってきたの?」
「え?美容室と……ちょっと公園にも寄った…けど…何?」
秋葉はそっと沙希のタンクトップにしがみついていたそれを取る。
「………蜻蛉」
柔らかな羽に触れないように、秋葉は指先に蜻蛉をとまらせた。
「公園から連れて来たのかな。羽化したばかりだと思うよ。まだ羽が頼りない」
「わー……かわいい……」
沙希は秋葉の指先からそれを自分の指先に移してもらい、しげしげと眺めた。
「飛ばないね?」
ふう、とその羽に息を吹きかけ沙希は呟いた。
「いいなあ……羽って……」
その言葉に、秋葉は笑う。
「羽が欲しい?」
「欲しいよ。次に生まれ変わったら、絶対空を飛ぶ生き物になりたいもん。鳥とかの翼じゃなくていいの。これっくらい柔らかい羽でさ、風に乗ってふわーって軽く飛ぶの。人間は、嫌だな」
沙希はくるくると表情を変える。
子供かと思っていると、不意に大人びた物言いをして。
「秋葉は何に生まれ変わりたい?」
指先の蜻蛉が、羽を震わせる。
「形がなくて……命のないもの。空気とか。風とか……水でもいい」
秋葉は、何故か沙希に嘘をつけない。
ごまかした言葉や曖昧な言葉を彼女は嫌い、奥底に隠してある真意を的確に見抜くからだ。
沙希のストレートさが何処か愛おしくもあり、時に疎ましくもある。
ただ、彼女が自分に向けてくる信頼だけは裏切る事は出来ない。
彼女が心を許した数少ない大人として。
「……あ……」
生ぬるい風が通り抜け、軽く首を傾げた沙希の指先から。
頼りなく蜻蛉が飛び上がった。
透明な羽が、太陽の光を反射する。
「でも、秋葉……水や空気がないと…命は育たないよね。風がないと…あの子もあんなふうに飛べないよね……」
時折、沙希の言葉は。
秋葉の心の深い場所を揺り動かす。
「風や水に感情や命はないけど……必要不可欠で、それがないと皆が困るもの。いいね。誰かにとって、自分がそういう存在になれたら、さ……」
沙希は眩しげに飛び去った蜻蛉を見上げる。
その姿はもう見えなかったが。
「こんな都会で、生きていけるのかなあ……」
空に向かい手を振って、沙希は視線を秋葉に戻し、笑った。
秋葉のポケットで、携帯が鳴り始める。
「仕事だね?私、今日から夜遊びするから!!また遊んでよ」
秋葉の返事を聞く前に、沙希は走り始めた。
ひどく悲しくなってしまったのだ。
ミュールは走りづらく、そのうち足を挫いてしまいそうだったが。
指先から飛んでいった、柔らかく透明で儚いもの。
何故か秋葉の言葉がそれに重なった。
家に帰り着くまで、どうか涙がこぼれてしまいませんように。
それだけを思い、沙希は走った。



秋葉は鳴り続ける携帯を持ったまま、沙希を見送っていた。
柔らかな羽が欲しいと呟いた彼女もまた。
まだ羽化したばかりなのだと。
そう伝えてやれば良かったと、ほんの少しの後悔を抱いて。



080801

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