捜査共助課2(短編小説)31〜60話

□光と影
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パンドラの箱に

最後に残されたものは

希望という名の災厄だという



触れたくないものに触れる時。
望んでいないにも関わらず、この心を勝手に踏み荒らされる瞬間。
細胞レベルで起きる拒絶反応。
憎悪と、嫌悪と、純粋な恐怖。
ひどく自分が汚されたような気分を味わう。
崎田は目の前に座る『彼』から視線を外さないように、眉間に力を入れる。
別に身の危険を感じる訳ではない。
慣れた日常の、仕事のはずなのに、どういう訳か頭の中に、逃避という言葉が浮かぶ。
逆にそれに触れてみたいという、一種の好奇心のようなものも自分の内側に生まれてくる。
絶対に交わる事のない、対極にあるもの。
それが『彼』という人間だ。
人間の形をした、何か別のもの。
触れれば飲み込まれる。
だが、触れなければ理解する事は永久に出来ない。
崎田はその狭間で心を揺らしていた。
『彼』が起こした恐ろしい災厄。
怨念というものがこの世にあるならば、一体どれほどの呪いを受けて『彼』は今生きているのだろうか。
心ここにあらずという虚ろな目をした『彼』は、崎田とは目を合わせる事なく、じっと虚空を見つめている。
崎田には聴こえない、いや、この部屋にいる人間には聴こえることのない声を聞いているような表情で。
時折唇にぞっとするような笑みを浮かべる。
「どうして…自供を覆したんですか?」
自然と掠れてしまう声に内心で舌打ちをしながら、崎田は『彼』……相模に問う。
相模の裁判はもちろん自分ひとりが担当している訳ではないのだが、崎田は自ら志願してこの検案に関わっている。
あの日。
相模によって傷つけられ記憶を失った秋葉の姿を。
その目を見た時に決めた。
どうあってもこの裁判だけは、自分達の手で勝ちを得なければならないと。
勝つ事、イコールそれは相模の死を意味する。
地裁、高裁、最高裁まで裁判が長引いたとしても。
たとえ途中で自分が関われなくなったとしても。
崎田は重苦しい空気の中、両手を机の上で組み、相模を見据える。
「覆した、理由は?」
二度目の問いで相模の目が動き、崎田を捉える。
一瞬その目に今までとは違う意思のようなものが見えた気がした。
精神鑑定では検察側、弁護側双方が依頼した別の医師が、彼には責任能力が問えないという結果を出してきている。
(本当に、そうなのか?)
崎田にはそれがまだ、信じられない。
責任能力が問えない被告は今までも何人か見たことはある。
それのどのタイプとも違う相模の目は、その奥底に、巧妙に何かを隠し持っている気がしてならない。
相模はすらりとした人差し指の先を、自らの胸に当てた。
「ここに」
低い声で呟き始める。
「巣食う……」
一言ずつ区切られ、唇から紡ぎだされる言葉は、まるで呪縛のよう。
「何かが」
崎田は耳を塞いでしまいたい衝動を辛うじてこらえた。
相模は崎田の心情を理解したように、言葉を止めた。
胸に当てていた指先を、今度は自分の口元へと持ち上げ、そっと唇に触れる。
「人は、外側から来るものに汚されるのではなく…」
不意に言葉の意味が繋がらなくなった。
「最後に……残された災厄は」
しかし淀みのない声で、相模は続ける。
「……何だと思う?」
そしてまた視線を動かし、自分だけの世界へと戻っていく。
その後は何を問いかけても無駄だった。
敢えて崎田も、今回は秋葉の名を出さなかった。
その時に相模がどんな表情を見せるのか、今は見たくなかったのだ。
大人しく手錠と腰縄をかけられて部屋を出て行く相模は、足を引きずり。
その不規則な足音が崎田の耳にいつまでも残った。




職場を出たのは、夕刻。
腕時計を見ると午後6時になっていた。
近付いてくる相模の裁判のために、証言をする秋葉と打ち合わせをするために崎田は秋葉の自宅に向かっている。
約束の時間には少し遅れてしまいそうだ。
電車を乗り継ぎ、目的の駅に降り立った頃には空は暗くなっていた。
秋葉の住むマンションへと歩きながら、崎田は思う。
本当はこれ以上秋葉と何を話し合ったとしても、検察にとって不利な方向へ傾きつつある裁判を軌道修正できるような事柄は出てこない。
唯一生き延びた被害者である秋葉に事実を語らせる事は、判決を下す裁判官へ、こちら側に有利な判断をするように促すひとつの手段に過ぎないのだ。
崎田は今、秋葉を手段として使おうとしている自分に迷いを感じている。
出来れば、もう二度と相模とは関わらせたくないという思いも確かにあるのだが。
検察は、一生消える事のない身体の傷と、まだ癒える事のない心の傷を更に抉るような行為を秋葉に強いている。
秋葉自身が立ち向かう事を望み、己に逃げる事を禁じているとはいえ。
「…………」
秋葉の部屋の前まで来たというのに、それでもまだ、迷う。
自分のものでないように重く感じる左手を上げ、崎田はチャイムを押した。
中から、かちゃりと鍵が開く音がしてドアが開かれる。
「悪い、遅くなった」
「………いいよ」
薄暗い玄関でも分かるほど、目の前にいる秋葉の顔色は悪かった。
右腕の内側に注射の後に付けられる白いテープが見え、崎田は無言で問いかける。
「………ああ、ちょっと点滴に行ってた」
崎田の視線に気付いて答えた秋葉だったが、それ以上は何も言わず部屋へと入っていく。
そこには梶原がいた。
彼がいるだけで、重く感じられたその場の空気が僅かに軽くなる。
秋葉も、もしかしたらそう感じているのかも知れない。
そう思いながら、崎田は秋葉に促されて床に座った。
「今日、相模に会った」
机の上に、鞄の中から取り出した資料を並べながら崎田は呟く。
キッチンから3人分の飲み物を持ってきた梶原が、一度秋葉の表情を窺うように視線を動かしたが、秋葉は特に何の反応も示さなかった。
「開けてはならないものとか…触れてはならないものを目の前にした気分になる、いつも。あいつに会う時は……」
「パンドラの箱、みたいですね」
梶原はコーヒーカップを崎田の前に置き、そう言った。
「………ああ。そう言えばそんな事を言ってた。最後に残された災厄って、パンドラの箱の話かな」
崎田は相模の言葉を思い出そうと天井を見上げた。
「箱を開けると、様々な災いが飛び出して…って話でしたよね?神話の」
梶原の言葉に、秋葉はふと笑みを見せる。
「最後に残されたのは、希望って説があるんだ。希望を災厄とする説もあるし、偽りの希望が詰められてるって説もある」
人は、箱の中にそれが最後に残されたために、空虚な物を追って生きねばならなくなったという。
「何が言いたかったのかな、相模は」
「……知るかよ」
秋葉は笑みを浮かべたまま、資料の写真に視線を落とした。
「あともうひとつ、人を汚すのは外側から来るもの…みたいな事も言ってた」
崎田の言葉に、今度は秋葉が視線を揺るがせる。
眉をひそめ、何かを探ろうとする表情を浮かべて。
「人は…」
そして相模と同じように、秋葉は口を開いた。
「外側から来るものに汚されるのではなく。自分自身の内側にあるものに汚される。殺意、憎悪、妬み、嫉み…悪意…それは自分の中から生まれ出るもの」
「秋葉……?」
僅かに震える、相模の写真の上に置かれた秋葉の指先を見て、崎田はそっとそれを自分の手元に引き寄せた。
「相模が…そう言ってた」
秋葉はそう呟いた。
そして崎田が閉じようとしたファイルに手を伸ばし、最後のページを開く。
「この部屋で」
血で染まるフローリングの部屋。ざらりとした血液のにおいさえも伝わりそうな生々しい写真。
「誰の中にも殺意はあって…それに引きずられるかどうかで…」
「秋葉」
崎田の呼びかけに、秋葉は顔を上げた。
その目の中に押し込めた苦痛を、崎田は確かに見た。



もう、いい。
その一言を、秋葉に言う事が出来たら。
光と影、その間に不安定に立つ秋葉に。
たった一言、そう言ってやれたら。



一瞬浮かんだその思いを、崎田は充分に働かせた自制心で押さえ込む。
誰よりも秋葉が、自分自身に課せられた役割を理解しているはずだから。
ならば自分も課せられた使命を果たすしかないのだ。
崎田はそれだけを心に念じた。
しかしそれでも。
その写真だけはもう少し、ほんの少しの間だけだったとしても彼の前から遠ざけておいてやりたい。
「秋葉さん、それ、ちょっと貸してくださいね。俺も確認しておきたいことがあるから」
崎田の思いを読んだ梶原が、秋葉が開いていたファイルを取る。
「じゃあ、初めから確認しようか」
あの年の、4月のカレンダーを置き、崎田は言った。



残されたものが

空虚な希望というのならば

人は

何に縋ればいいのか

その心に

最後に残されたものは

光なのか

それとも影か

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