公安第一課4(裏)

□無題
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秋葉がその白い霧のようなものに気付いたのは、数日前のことだった。
いや、本当はもっと、随分と前からそれはそこに居たのかも知れない。
ただ、自分がそれを見ようとしなかっただけで。



震災以降の節電対策により、署内のエアコンはスイッチを切るか、温度を下げすぎないように徹底されている。
それは秋葉にとって別に苦にはならないのだが。
パートナーの影平にとっては苦痛以外の何物でもないようだ。
しきりに現場に出たがり……それはつまり車のエアコンで涼みたいという理由で……
設定温度を23度、風は強風という設定にしてしまう。
外気温との差が激しすぎて体調を崩してしまいそうになるのだが、それを言って素直に聞くような影平でもない。
クールビズをいいことに、ど派手なアロハシャツとサングラスという格好で現れ、課長の三島を脱力させていたのは6月の事。
服装こそ大人しくなったが、行動は相変わらずだ。
今日一日の出来事をつらつらと思い出しながら、秋葉は帰路につく。
照明を落として薄暗い地下鉄の構内から地上に上がると、アスファルトはまだ熱を持っていた。
「おかえりなさい、秋葉さん」
今日は非番だった梶原が出迎えてくれる。
こんな生活がいつの間にか当たり前になってきた。
生活感が全く無かった秋葉の部屋には、少しずつ物が増えた。
独りだった空間に、梶原という存在が馴染んでから随分と時間が経っている。
「………ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、秋葉は小さく答える。
目を上げると、やはり『それ』はそこにいた。
梶原のすぐ側。
例えるならば、色は白。
触れる事が出来そうで出来ない。
ゆらゆらと揺れる陽炎のようなもの。
秋葉は最初、自分の目がおかしくなったのだろうと思っていた。
だがその物体は、少しずつ形を成しつつある。
ようやく今、その正体が分かった。
分かった気がした。
「………どうしたんですか、秋葉さん。顔色が悪いみたい」
呆然として一点を見つめている秋葉を、怪訝そうに梶原が伺う。
『やっと気付いた』
はしゃいだような声が聞こえた気がした。
一度は忘れた『彼女』の声だった。



秋葉は『霊』という存在を積極的に肯定はしていないが、かといって完全に否定している訳ではない。
どちらかと言えば、視える体質だとは思う。
これまでは例え何かが視えたとしても、別に何も思う事は無かった。
それがそこに在るのなら仕方ない、と。
ただ、今回は違う。
『彼女』がこの部屋に居るのだ。
数年前に自ら命を絶った、奈穂が。
「秋葉さ〜ん」
食事中、秋葉の目の前で梶原が右手を振る。
「あ……うん…」
我に返り、秋葉は梶原を見た。
「やっぱり何かおかしいですよ?何だか幽霊でも視たみたいな顔してる」
『あははは、正解』
梶原の側で、奈穂が明るく笑った。
その声は、秋葉にしか聞こえていないようだ。
内心激しいパニックに陥っているのだが、それを表に出すわけにも行かない。
完全に上の空で食事を終える。
「まさか…熱があるんじゃないでしょうね」
後片付けの途中、不意に梶原が右手を秋葉に伸ばした。
秋葉は思わずその手から身を引いてしまう。
「………秋葉さん?」
梶原が、僅かに傷ついた顔をした。
「ごめん……大丈夫、何でもない」
そう言いながらも、秋葉は梶原と一定の距離を置く。
くすくすと笑う奈穂の声が、また聞こえた。



『気にしなくていいのに』
普段ならば梶原と2人で眠るベッドを、梶原ひとりに使わせる。
理由を聞きたがる梶原に自分は後から眠るからと言い、秋葉は隣室の壁際に背を預けて座っていた。
「………」
気にするな、と言われても。
気になるだろう。
奈穂にそう言い返そうかと思いながら、秋葉は戸惑う。
聞きたい事も言いたい事も、たくさんありすぎる。
こうしてひとりで居ると、梶原と暮らし始めた頃の事を思い出す。
最初は遠慮がちに床で寝ていた梶原が、いつの間にかベッドに上がるようになり。
そのうちに私物を持ち込み、まるでここが自分の家のように過ごしている。
今よりもずっと不安定な精神状態だった秋葉は、何度も発作を起こしては混乱した。
梶原はその度に秋葉を現実に引き戻し、秋葉が死の淵を覗き込まないように見守っている。
「いつから…ここにいたの」
ようやく、秋葉は奈穂に向かって言葉を発した。
彼女は少し首を傾げた。
『よく分からない。でも、柊二には私が見えなかった』
「そう……」
奈穂が生きていた時。
自分はどういうふうに彼女と接していたのだろう、と秋葉は思う。
『本当はね。連れていこうかなって思ったの、あの時。柊二が死んじゃいそうだった時』
「………どうして連れて行かなかった」
苦笑交じりに秋葉が問う。
次に口を開けば、恨み言がでてしまいそうだ。
だが、記憶は曖昧で。
奈穂との距離が随分開いてしまっているのだという事を、秋葉は悟る。
生者と死者との距離よりも、それは遥かに遠い。
そちらの世界へ連れて行って欲しかった気もするし、独り生き残ってこちらの世界で足掻いているのが自分には相応の罰のような気もする。
『連れていけなかった。何だか、あの人の願いが強すぎて』
奈穂は笑いながら、細い指で隣室を指す。
「梶原?」
秋葉が問うと、奈穂はまた笑う。
『そう。もし柊二が死んじゃったら、あの人に私が殺されそうだなって。あ…もう死んでるけど』
「……」
奈穂はこんな冗談を言うような性格だっただろうか。
秋葉は何処か不思議な気持ちで奈穂を見ていた。
『良かった。柊二が独りじゃなくて』
「俺は………」
そもそも突然自分を置いていったのは何処の誰だ。
やはり恨み言が浮かんでしまう。
『ごめんね。独りにして』
小さな声で奈穂が呟く。
それまでの声音とは明らかに質が違っていた。
「どうして……俺を置いて行ったの」
ふわり、と奈穂の手が頬に触れた気がした。
肌に馴染んだ感触だった。
記憶が無くても、肌が覚えている。
優しくて温かい指先。
「どうして?」
彼女を困らせる問いだろうと分かっていた。
これではまるで駄々を捏ねる子供のようだ。
秋葉は自分に対して苦笑する。
案の定、奈穂は黙り、俯いてしまった。
『…………ごめんね。私、今も柊二の邪魔してる』
「邪魔?」
何のことだ、と首を傾げると、奈穂は悲しげに微笑んだ。
『柊二、ずっと迷ってる。あの人と一緒にいてもいいのかって』
梶原がいることが当たり前になって。
でも、当たり前になれない。
『……柊二がいらないなら…私がもらってもいい?あの人』



もらってもいいか、と奈穂は笑う。
無邪気な笑みだ。
秋葉は呼吸をする事さえ忘れたように固まった。
『あのね。私がここにいられるのは、あの人からちょっとずつちょっとずつ、生命力みたいなものをもらってるからなの』
このままずっと彼女がここに居ると、梶原に悪い影響が出るのだという。
『柊二からは駄目。今私がそれをしたら、あなたはきっと死んじゃう』
「………だったら…」
今すぐにでも連れて行け。
そういいかけて、真っ直ぐな奈穂の視線に試される。
いつ死んでもいいと、確かにそう思っていた。
梶原が自分の心の中に入り込んでくるまでは。
『あの人、面白い人ね。私、結構気に入ってるんだ』
動けずにいる秋葉の目の前にしゃがみ込み、奈穂は秋葉を覗き込む。
明るく振舞いながらも、奈穂の首筋にはまだ生々しい傷が残っていた。
彼女が身を置く世界が、どれだけ異様な場所なのか。
それは想像するしかない。
『柊二は来ちゃ駄目』
悪戯っぽく奈穂が言う。
『あの人、もらっていい?』
「………嫌…」
秋葉は掠れた声で答えた。
奈穂はにこりと笑う。
『………本当、柊二って本音を言うのが苦手だよね。前はもっと素直だったよ?』
また、頬に触れられる。
秋葉の双眸から零れ落ちた涙は、彼女の指先をすり抜けた。
『自分は幸せになっちゃいけないとか…思ってるんだよね、柊二』
幾つかのサインを見逃して、奈穂を救えなかった事。
一度は捨てる覚悟をした刑事という仕事に、今もしがみついている事。
苦痛な記憶を全て投げ出してまで、生きている事。
『そういう考え方、しちゃ駄目だよ。また忘れちゃうかも知れないけど…』
奈穂の両腕が秋葉を抱き締める。
『好きとか、嬉しいとか。こうしたい、とか…。そういうこと考えて生きて欲しいんだ、柊二には』


幸せに、なってね。



ヒグラシが一斉に鳴き始めた。
午前5時40分。
秋葉はその声に誘われるように目を開けた。
壁に背を預け、ぼんやりと視線を巡らせる。
一瞬記憶が繋がらない。
「………」
身体の左側が温かかった。
ぎこちなくそちらを見ると、梶原がいる。
一枚のタオルケットを秋葉と分け合い、秋葉にもたれてすやすやと眠っていた。
「………梶原……」
秋葉はそっと梶原の名前を呼び、彼の茶色の髪を撫でる。
もう、奈穂の気配は感じられなかった。
そもそも、昨夜の出来事が夢だったのか現実だったのかさえも判断が出来ない。
「秋葉さん……こんなとこで眠っちゃうから……」
不意に梶原が呟いた。
秋葉にもたれた体勢のまま、全身の重みをかけてくる。
「……っ」
秋葉は堪えられず、梶原と一緒に床に転がった。
「嫌われたのかと思った」
半分寝ぼけたような声。
梶原は固い床の上で秋葉を抱き締める。
「………嫌ってなんかない……」
甘えてくる梶原の背を軽く叩き、秋葉は深く息を吐いた。
開けていた窓から、風が入ってくる。
壁のカレンダーがその風に煽られて揺れた。
「梶原……誕生日、おめでとう……」
すう、と梶原の寝息がそれに答える。
これからの1年も、また一緒に過ごせますように。
秋葉はそう祈りながら目を閉じた。


ヒグラシの声が突然止む。
代わりに大粒の雨が降り始めた。


通り雨。

奈穂の笑い声が聞こえた気がした。

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