公安第一課4(裏)

□やがてくる春を思う
1ページ/2ページ

『やがて来る春を思う』


そろそろ冬物のコートも要らなくなるだろうか。
そんな事を思った翌日には、風が強くて気温が下がる。
まだ少し、春は遠くにいるのだろうか。
遠ければ遠いほど、いいのだけれど。
職場では花粉症で調子を崩している同僚が複数、風邪でダウンしている同僚がひとり。
まあ、そのひとりは影平だが。
おかげで今日は静かな1日を過ごす事が出来そうだ。
たまたま出張で陣野が留守だったので、パートナーがいない者同士、梶原と仕事をする事になったのも良かったのかも知れない。
「………良かった……?」
自分の思考を巻き戻してみて、素のままで頭に思い浮かんだその言葉に引っかかる。
「どうしたんです?秋葉さん」
小さな呟きを聞き、隣にいた梶原が首を傾げながら秋葉を覗き込んだ。
「何でもない」
影平に伺いをたてなければならない書類についてのメールを作成しつつ、あまりに愛想のないその文面に、パソコンのキーを打っていた指を止める。
電話にすれば話は早いが、高熱を出しているという事なのでメールにしてみたのだが。
返信は今日の16時頃までにもらえればいい。
もしも返信が来なければその時に電話をすればいい、という程度のものだ。
「影平さん宛てですか?珍しいですよね、影平さんが熱出して休むなんて。ちょっと心配」
「ああ……うん…」
秋葉が眺めている画面を見ながら、梶原が心配げに言う。
そういえば、昨日から具合は悪そうだった。
いつもなら、『喰らえ俺の風邪菌』とでもいいながらわざわざ咳き込むくらいの所業は当たり前だったのに。
昨日の影平は、きちんとマスクもしていたし覆面車の換気も自分からこまめにした。
秋葉に手洗いとうがいをするように何度も言ったりもした。
「……ちょっと心配になってきた」
メールの最後に打った、以上、の文字を消し、秋葉は再びキーの上に指を乗せる。
結局そっけない文面には違いなさそうだが、一応見舞いの言葉を入れ、送信する。
「秋葉さんにうつってないかって方が心配ですけどね、俺は」
さらり、と梶原がそんな事を言った。
「じゃ、行きましょうか」
梶原が捜査用のファイルとその他の持ち物をバッグに詰め込む。
午前中、まずひとつめの仕事は聞きこみだった。
本来陣野と梶原が担当する地域だ。
「俺、運転しますね」
当たり前のように梶原が言い、覆面車の鍵を取る。
秋葉は一階の駐車場へ向かいながら、もう一度行き先の確認をするために手帳を取り出した。
秋葉は足を止める。
覚えのある、住所だった。


覆面車のダッシュボードに入っている簡単な使用履歴に今日の日付と時刻、スタート時の走行距離を書き込み、秋葉はそれを閉じる。
梶原はエンジンをかけ、ギアをドライブに入れた。
薄暗い駐車場から慎重に歩道に車体を出す。
梶原はタイミングを見計らい、車を右折させた。
「桜、もうちょっとで満開になるみたいですね」
開花宣言は出ていたが、先日の嵐のような悪天候もあり、まだ満開には程遠いかと思っていたのだが。
「ああ…そうなんだ……」
梶原の言葉に相槌は打ったものの、秋葉はどこか他人事のように目に映る景色を見ている。
「今年は花見するぞって言ってた人が、何だか風邪引いてるんですけどね」
梶原の声がふと遠くなる。
秋葉は手元に広げた資料に視線を落とした。
あの年の春は、急ぎ足で。
梶原はまだ、刑事になったばかりだった。
運転はあまり任せられなかったし、仕事のバッグの中身はごちゃごちゃしていた気がする。
秋葉にも梶原を引き受ける余裕など何処にもなく、何故彼をベテランの刑事と組ませないのかと苛立ちを感じたりもした。
梶原が成長したのは、陣野と組んでからだろう。
そういえば、最初は覆面車の助手席で居眠りをしていたりした。
そんな事を思い出してしまい、秋葉は少し唇を笑みの形にする。
追体験というには遠い、しかしほんの少し錯覚に似た感覚がした。
あの年の、春。
「着きましたね。ここ、駐禁じゃないですよね。この前は別のとこに停めたんですけど」
住宅街の一角にある公園の側に車を停め、梶原が周囲を見回す。
特に駐車禁止の標識も無いし、往来の邪魔になる位置でもない。
梶原に続いてドアを開けて外に出ると、ひやりと背筋が冷えた。
ここは、秋葉が相模に撃たれた場所に近い。
相模に殺された女性が住んでいたマンションの近くでもある。
景色はほとんど変化していない。
住宅街なのだから当たり前だ。
「何処から始める?」
秋葉は感情が自分に追いついてくる前に、抑揚の無い声で言った。
「はい。じゃあ、あの青い屋根の家から右回りで」
梶原も恐らく、秋葉の心が揺れた事に気付いていたのだろうけれど。
彼らしく、にこりと笑って歩き始めた。



「ああ〜…そうですか、ご主人帰り遅いと大変ですよねえ」
この地域では最近、空き巣やひったくりが多発している。
同一犯というよりも、窃盗団がいる可能性が高い。
既に一度同じ家に聞き込みに来ていた梶原は、その家の主婦と世間話をする。
人懐こい性格の梶原は、何処に行ってもあまり警戒されない。
するりと相手の懐に入り、うまく情報を引き出す能力に長けている。
だが、最初からそれが出来ていたわけではなかった。
メモを取るだけで精一杯だった頃を、秋葉は曖昧に霞んだ記憶の片隅で覚えている。
いつの間に、と思う。
梶原が聞きだしている話を分かりやすいようにメモしながら、秋葉は格段に上達した梶原の聞き込み手法に驚いた。
(自分の話を親身になって何でもきいてくれそうだから、かな……)
相手が喋っている事の内、こちらに必要な内容はほんの少しだ。
それでも梶原は厭わずに相手の話をじっくりと聞いている。
(もう、何処に行っても大丈夫だな)
素直に、秋葉はそう思った。
自分が泥沼に足を取られてもがいていた間に、梶原は随分と遠くへ行ったような気がする。
「ありがとうございました、また何か気付いた事あったら連絡くださいね」
ふと、梶原の声で秋葉は我に返った。
手にした手帳を見ると、それでも重要だと思われる事はメモに取れているようで安堵する。
「バイバイ」
門の側に、先程はいなかった飼い猫が座っていた。
梶原は律儀にその猫にも手を振る。
猫はぱたんと尻尾を振った。
「えーと、次はあの家です。この前は留守だったので話はきけてません」
あのマンションを右手に。
もうすぐあの路地に差し掛かる。
あの日と似たような肌触りの風、桜、遠くに子供の笑い声。
(違う、今は)
「秋葉さん」
梶原が突然立ち止まり、彼の身体が秋葉の視界を遮った。
「すみません、ちょっと手帳見せてください」
「……?」
「んーと……あ、そうかそういうことか」
俯いた秋葉の目に見えるのは、梶原の手と足元のアスファルトがほんの少し。
少し視線を上げると、梶原のネクタイが見える。
並んでいる小さな模様は、よく見るとカラフルな象だ。
「………なんでそんな柄のネクタイ締めてるんだ」
「あ、気付きました?なんか、姉ちゃんにもらったので一応一度は締めるのが礼儀かと」
手帳を閉じた梶原と、初めて目を合わせる。
「やっぱり俺、秋葉さんにはまだまだ追いつけません。や、追いつけるとは思ってないんですけど」
「何言って……」
梶原に促されて歩き始めると、いつの間にかあの場所を通りすぎていた。
今、梶原に救われた。
微かに残る身体の震えを自嘲しながら、秋葉は梶原の背を目で追う。
「追いつくどころか……もう随分先に行ってるよ」
小さく呟くと、梶原は振り向いた。
「随分ってそこから3歩くらいですよね?」
「………」
天然なのか、意図的に話をずらしているのか。
恐らくは前者なのだろうが。
「お前には敵わない」
秋葉の言葉に、梶原はきょとんと首を傾げた。
「早く帰れたら、久しぶりに上島珈琲行きましょう?」
「……いいね」
秋葉の返答に、梶原は小さく右手を上げる。
「お前、そのネクタイやめたほうがいいよ」
「やっぱり?さっきの奥さんも何か笑い堪えてて…ちょっとかわいすぎますよねえ」
若干恥ずかしげな表情をする梶原に、秋葉もどういう顔をすればいいのか分からない。
かわいいというか、奇抜というか。
彼の姉の趣味は正直よく分からないが、これは彼ら姉弟にだけ通じる何かの罰ゲームなのかも知れない。
「秋葉さん、今日仕事あがったら夜桜見に行きませんか?」
「………そのネクタイをどうにかするなら考えてもいい」
「しますします。秋葉さんのロッカーにある予備のネクタイ借ります」
梶原は無邪気に笑う。
梶原が笑う度に、秋葉は背後から追いついてこようとする過去から逃れられるような気がしていた。
「大丈夫ですよ、秋葉さん」
僅かに声音を落とし、梶原が呟く。
あの春を誰よりも秋葉と近い場所で共有した梶原だからこそ、秋葉が何を恐れているのかを知っている。
「あっ!!今日は誰か在宅してるみたいですね」
仕事の後の予定が決まると、俄然やる気が出るのは以前から変わらない。
梶原のその後ろ姿を見ながら、秋葉は笑った。


秋葉は、一度だけ背後を振り返る。
まっすぐに自分に向けて銃口を向け、綺麗に笑った相模。
彼がまだ、その場所に立っている気がして。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ