公安第一課4(裏)

□重なる時間
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互いが生きてきた時間の中で
重なる部分など
さほど多くは無いのに

どうしてこんなに
愛しいんだろう




人の記憶というものは、ひどくいい加減で頼りないものだ。
キッチンのテーブル。
梶原と向かい合いながら、秋葉はそんな事を考えていた。
2人が手にしていたのは、1本のワイヤー。
ある程度の長さがあり、指先の力加減ひとつで折り曲げて形を作れるものだ。
ワイヤーの左端が、それを触っている本人が生まれた時。
右に向かうにつれて年齢を重ねていく。
覚えている範囲で、自分に影響を与えた出来事が起きた時、ワイヤーを折る。
上向きに折るのは、良いことや嬉しいことが起きた時。
下向きに折るのは、その逆。
梶原は、くい、とワイヤーを上に下に向けて折る。
決断に迷いはない。
その指先を見ながら、秋葉は真っ直ぐなままの手元のワイヤーを見ていた。
左端が、生まれた時。
右端を、今日だとしよう。
秋葉は梶原とは逆に、自分を辿る。
その方が『自分』だけの記憶を辿れると思ったから。
ワイヤーを目測で30数等分し、1年分の長さを決める。
秋葉はまず、右端からワイヤーを下向きに折った。




毎日毎日。
梶原は入院している秋葉を訪ねる。
秋葉が記憶をなくした、あの春の日の事だ。
声をかけても反応が鈍い日もあれば、梶原の語りかけに応じる日もあった。
しかし今思えば、秋葉はひどく怯えていたように思う。
幾度かあった命の危機を何とか乗り越えたものの、記憶が一切残っていない。
当然、相模の事件に対しての事情聴取はままならず、本庁の人間も業を煮やしていた。
消毒液を使い、青い使い捨ての病衣を身に着け、ICUの扉を足で軽く蹴る。
手を使わなくても扉が開くように、センサーがつけられているのだ。
ある時。
秋葉はベッドの上に投げ出した、点滴の管につながれた右手をぼんやりと見ていた。
その手のひらに握られたものが何であるのか、梶原は知っている。
「秋葉さん。頼まれてたもの、持って来たんですけど。今日は先生から許可が下りなかったので、ごめんなさい」
側に寄り、声をかけても秋葉は何の反応も示さない。
昨日、秋葉に乞われたものは。
刑事課全員に関する略歴だった。
本来持ち出しは厳禁だが、課長の三島の許可を得て、ここまで梶原がファイルを運んだ。
しかし、秋葉の主治医からはそれを秋葉に渡す許可が下りなかったのだ。
記憶を取り戻す手掛かりになるものならば、とは言われていたのだが。
今日のこの様子では、あまり外からの刺激は与えないほうがいいのだろう。
「秋葉さん」
2度目の呼びかけで、ようやく秋葉は視線をさ迷わせる。
梶原は秋葉の傍らに座った。
慎重に、秋葉を恐がらせないように。
そして、梶原は秋葉に初めて会った時の事を思い出す。
元から感情の乏しい表情は、更にそれを失ってしまった。
その事が悲しくてたまらない。
秋葉の視線が再び動き、梶原を認識する。
「………」
乾いた唇が、僅かに開いた。
声になる事はない何かを呟いたあとで、少しだけ秋葉が笑った気がする。
こちらを見たものの、もしかしたら意識は何処か遠くへ行っているのかも知れない。
同じように、梶原は自然に微笑んだ。
「秋葉さん。俺の名前は、梶原秀希です」
一芸に秀でるの秀に、希望の希と書きます。
初めて秋葉に会った時、勢いよくそう説明すると。
秋葉は少し白けたように身を引いた。
それを思い出すと、もう少しだけ自然に笑えたような気がする。
長い瞬きの後。
「かじわら…」
秋葉が梶原を呼んだ。



「できたっ」
明るい声をあげ、梶原がワイヤーをテーブルの上に置く。
本来は秋葉に出された、心理治療の宿題だった。
その宿題に完全に行き詰った秋葉に、梶原が付き合う事にしたのだ。
「………俺も出来た」
梶原のワイヤーが左端から複雑な形を描くのに対し、秋葉のワイヤーは平坦なままだ。
それを見て、梶原は少しだけ悲しげな顔をした。
秋葉は微笑む。
「ここ、あの時」
秋葉だけの記憶の始まり。
始まりの記憶は、相模。
ワイヤーは下に折り曲げられている。
喜びも、悲しみも。
岐路に立ち、秋葉が選んだ道も。
それによって発生した、成功も失敗も、何もかも。
秋葉の20数年間は真っ白で、平らだ。
それは失った日でもあり、始まりの日。
未だに秋葉の起点は、相模だ。
秋葉と相模、どちらかの命が終わるその時まで。
「多分、こう…この辺りがどん底じゃないかな…」
相模と出会う前に、秋葉は近しい人を幾人か失っている。
その出来事を秋葉はもう思い出しているのだろうが、確固たる記憶として自信はないのだという。
それ故に、気持ちをどちら側にも動かす事が出来ないまま、ワイヤーは平坦なのだ。
いつか、秋葉が淀んだままの気持ちを動かす日が来ればいいのに、と梶原は思う。
「あ。でもその後、上がってますね。何があったんです?」
努めて明るい声で、梶原が問う。
秋葉は首を傾げ、笑った。
「ここ、お前が病院に通ってきたあたり」
振り払っても振り払っても。
たとえ恫喝しても。
諦めて逃げても。
梶原は秋葉の手を離さなかった。
まだ傷は癒えないまま。
2人で居る事によって、秋葉が梶原に刻んだ傷もあるだろう。
また、その逆も。
先の事など分かるはずもない。
それでもこうして重なる時間がある事が、2人には嬉しい。
「で。この辺りでお前がここに来たりして」
「……それで、ずーっと今日まで上がりっぱなしなんだ?俺、すごく嬉しいんですけど。調子に乗ってもいい?」
秋葉の指先がワイヤーを辿る。
梶原のワイヤーも、秋葉と同じ形を辿っていた。
「これ。俺も、調子に乗っていいの?」
「いいんじゃないですかね。今日は誕生日だし」
梶原は椅子から立ち上がると、テーブルに手をついて秋葉の頬に自分の頬を寄せる。
「あなたが生きててくれて、嬉しいです」
様々な思いを込めて、梶原が言う。
秋葉はくすぐったそうに肩を竦めた。

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