捜査本部(中編小説)

□絶えない闇
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この両手は血まみれのまま、乾くこともない。
誰かこの手を取って、大丈夫だと囁いて。




「意識レベルは!?」
「200」
「バイタルは」
「脈拍は頚動脈で触れています。血圧は…」
「輸血の準備、止血急いで!点滴のラインを取って!!」
「秋葉さん!聞こえますか?」
「秋葉さん!!」
 何処かへ運ばれて行くような気がした。まるで水の底にいるような感覚だった。自分を呼ぶいくつもの声が、途切れ途切れに聞こえる。最後に残された力で薄く目を開けると、白く眩しい光が見えた。もう自分の意志では動かせない指先がひどく冷たい。
「秋葉さん!しっかりしてください!」
(………うるさい、な……)
 彼は目を閉じた。全ての感覚が遮断される。もう、放っておいてくれればいい。そして意識はまた螺旋を描き始めた。深い深い闇の底に引きずられ、何もかもがどうでもよかった。
 


 始まりは、一人の女性が自宅アパートで死体となって発見された事件だった。4月10日早朝の事である。
「被害者は―……高橋春菜。28歳。S生命保険の社員」
「死因は」
「監察医の所見では頸動脈を切られたことによる失血死ですね。あとは解剖結果を待たないと詳しくはわかりません」
「自殺?他殺?」
「まだどちらとも。ためらい傷が一切ないので、他殺の可能性が大きいですね。しかし、部屋の鍵は閉められていたし、荒らされた形跡もない。指紋は複数でていますが、この年頃の女性では交友関係も幅広いでしょうし。合い鍵があれば犯行もたやすいでしょうね」
「今、両親がこちらに向かっているところです。仏さんはこれから監察医務院に搬送するので、そっちに直で行ってもらいます」 
 既に生命を失って硬質な物体になった彼女の周りで、そんな会話が繰り広げられる。一人の刑事が彼女の側にしゃがみ込み、白手袋をはめた右手で、まだ物言いたげに開かれたままだった彼女の瞼をそっと閉じてやる。彼の名を、秋葉柊二という。階級でいえば巡査部長。彼は遺体を中心に広範囲が血液でどす黒く変色したフローリングの床を、冷めた目で見渡す。彼は死体を見ることには慣れていた。整ってはいるが一種の冷徹さを感じさせる顔立ちが、何処か現実と感情が切り離されているような印象を与える。ここで死んでいる彼女は、彼とは同い年の様だった。
「………」
 何故彼女は死ななければならなかったのだろうか。眉をひそめ、誰にも聞こえない程度の呟きを吐き出し、秋葉はふらりと立ち上がる。きちんと整頓されていたであろう部屋の中では、刑事や鑑識の人間が所狭しと動き回っていた。息苦しさを覚えて、秋葉はシャツのボタンを一つ外し、ネクタイを少しゆるめる。首筋が見えて、そこからシルバーのチェーンに通した同色の指輪が見えた。白い壁を眺めれば、そこにも血痕。それから天井を見上げると、そこにも飛び散った血液が付着していた。
(これじゃあこの先借り手がないだろうな……)
 ふとどうでもいいことを考えたりもする。
「秋葉、仏さんと一緒に監察医務院へ行ってくれ。両親が到着したら状況説明と事情聴取を頼む」
「はい」
 それは自分にとって殊更に嫌な役回りではない。被害者の遺族の対応をするのは、周囲の同僚との暗黙の了解で自分の担当になっている。
「よう、秋葉ぁ。解剖待たんでも、これは明らかに殺しや」
 部屋を出ようとする秋葉に、鑑識の重宮雅文がすれ違いざまに呟いた。いつ見ても無精髭を生やし、一週間以上の徹夜が続いているのかと思わせる風貌と、嘘くさい関西弁が彼の特徴だ。しかし眼光は鋭く、鑑識の腕前は警視庁管内でも一目置かれている。初動捜査の段階で捜査をミスリードすることがないように、たった1ミリの大きさであろうが、証拠物件をはいずり回ってでも見つけてくるのが重宮だった。そういう意味で秋葉は彼の仕事を全面的に信頼している。変に身構える事なく自分に接してくる数少ない人間であったので、個人的には貴重な友人でもあった。要は重宮という男は変わり者、という事になる。
「シゲさんの勘、ですか」
 秋葉は薄く笑う。重宮は軽く溜め息をつき、頭をばりばりと掻きむしった。
「俺の目を馬鹿にするなや。……この事件はまだまだ続くで。嫌ぁな感じがすんねん。この犯人は血に飢えとる。見てみい、この殺し方。頸動脈すっぱり切っとるやろ。わざわざ血が飛び散る方法を選んどる様な気がするわ」
 つい先日32歳になったばかりの重宮は、まるで定年間近の老成した刑事の様な物言いをする。その二人の横を、シートを被せられた遺体が通り過ぎていった。
「なるほどね。思い切って挑戦してみた殺しの手応えが、そいつにとってどんなものだったか……ですか」
 そう言って秋葉は狭いドアをくぐり、外に出た。どうせ監察医務院はここから近い距離だ。秋葉は覆面車を置いて歩いて行く事にした。
「秋葉さん!!」
 秋葉の後を追って、長身の若者が部屋から飛び出して来る。
「俺置いて行かないでくださいよ」 
 秋葉より2つ年下のこの男の名を、梶原秀希という。先月大塚署に配属されたばかりの新人だ。何故かこの梶原のパートナーとして、秋葉が選ばれた。通常はベテランと新人が組む事が常だから、梶原には気の毒な組み合わせだ。何しろ秋葉は大塚署でも少々難ありの刑事だったから。
「いいんだよ、お前来なくても。現場でうろうろしてろよ。どうせ遺族を見たら泣くんだろう。使えねえ。邪魔だから来るな」
 わざわざきつい言葉を選んで、秋葉は梶原にそれを投げつける。
「ええええ、そんな事言わないでくださいよ」
 梶原は情けない表情で、足早に歩く秋葉についてくる。秋葉とは対照的に生まれついての茶色の髪を、試験に合格するまで黒に染め続けていたと聞く。対照的といえば、この二人は何もかもが正反対だ。秋葉が他人を寄せ付けない雰囲気をまとっているのに対し、梶原は刑事にしては人懐こく、本人には悪いが、まるで柴犬のような印象を与える人物だ。独特の打たれ強さがある。だからと言って、こんなに懐かれるとは思っていなかった。予定外だ。……そうか、何となく幼い頃に飼っていた柴犬に似ているのだと、秋葉は思う。ちなみに、身長は梶原の方が5センチ高い。
「あの現場、どう思う」
 ようやく横断歩道の前で自分に追いついた梶原に、少し声質を和らげて秋葉は問う。殺人事件なら気が遠くなりそうな捜査がこれから始まる。本庁からやってくる刑事も鬱陶しい。
「ためらい傷がないってのが。他殺、とは思いますけど。遺族にとっては他殺の方が……いや、どちらも耐えられないと思うけど、憎む対象があるだけいいかもしれないですね。自殺だと……ずっと理由を探して、どこにも気持ちの持って行き場がないじゃないですか。秋葉さんは?感触としてはどうですか」
「………さあな」
 気のない答えを梶原に返しておいて、秋葉は黙る。梶原は秋葉の邪魔にならないように、とりあえず黙って隣を歩いておいた。
「自殺にしろ、他殺にしろ………人が一人死ぬにはそれなりの理由があるんじゃないかと、俺はいつも思うんだ。そこから手繰っていけば、必ず真実にたどり着く……」
 秋葉はそこで、一度言葉を切る。そして隣の梶原を見上げた。
「が…………最近は理由のない殺人も増えたから、な」
「も〜!秋葉さんてば!!」
 何を考えているのかわからないぞ、という顔で梶原が真っ青な空を仰ぐ。それを見て、秋葉は少しだけ笑った。
「お前、刑事には向いてないなぁ」
「何でですか」
 梶原も苦笑する。秋葉の、こういう一種のトゲがある言葉には慣れている。
「……殺しだと面倒だなあ……」
 秋葉は独り言の様に呟いた。時々思いついた様に、全く違う話題を口にするのも秋葉の癖だ。
「面倒、ですか」
「面倒さ」
「……どうして?」
「俺達がどう足掻いても、今起きている現実が変わらないから」 
 目の前の信号が赤から青に変わる。返答に詰まった梶原をその場に残したまま、秋葉はまた涼しい顔で歩き始めた。監察医務院は、大塚公園の横にある。桜の花が咲き始め、散歩をする老夫婦の横をすり抜けて、秋葉と梶原は建物の中に入った。
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