捜査本部(中編小説)

□氷月
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Prologue

『回帰』


彼女は月を見ていた。
法で阻まれた外との境にそびえる灰色の塀の上に、鎌のような金色の月が晧々と光っている。
本気で逃げようと思えば、逃げることは出来ただろう。
だが彼女は静かに数年を過ごしていた。
逃げることは本意ではなかった。
捕まった自分の愚かさへの罰として、ここにいるのだから。
それに、逃げればいらぬ邪魔が入りやすくなる。
彼女は声を立てずに笑った。
一時の快楽の為に早まった行動に出るほど、自制心が無い訳ではない。
むしろ逆だ。獲物にありつくまで、じっと身を潜めていなければ。
心底反省した振りをして、誰もの目を欺かなくては。
それは楽しいゲームだった。
でも、もうそれも終わる。
この数年間は決して短くはなかったが、彼女の本能を変えられるほど、長くも厳しくもなかった。
冷たい金属の感触が手のひらに蘇る。
流れる血を思いながら、彼女は再び笑った。
それは同室の住人が起きていたとしたら、思わず後ずさるほどの、凄絶で妖艶な笑みだった。



彼女が長い時間を過ごした塀の中から出たとき、そこには桜が咲いていた。
白としか思えないその花びら。
この樹の下には死体が埋まっていないから、こんなにも白いのだ、と彼女は思った。
満開の桜を見ると、素直に美しいと思うと同時に、その花を引きむしりたい衝動に駆られる。
それは今も昔も変わらない。
彼女は樹に歩み寄ると、花に手を伸ばした。
淡い淡い、目を凝らさなければ分からないほどの、薄紅。
「………令子さん」
背後から声がかけられた。この7年間、途切れずに面会に訪れた男の声。
東海林令子は花を掴もうとしていた手を止めた。
「………」
ゆうるりと振り向いた彼女の顔は、7年前にこの刑務所に入ったときと変わりなかった。美しさも、その笑みも。
(ああ、この人の時は7年前で止まっている)
彼、大塚正博は、胸の奥がじわりと痛むのを感じた。
大塚が令子の弁護を担当して、この刑務所に彼女が入った時と、何一つ変わっていない。
きっと反省もしていない。それをするとしたら、捕まった自分の愚かさを痛烈に反省しているのだろう。
(今、彼女を本当に外に出してしまっていいのか……?)
大塚は足を進めると、令子の前に立った。
「これから何処へ行くつもりですか」
「………さあ?山形や宮城にいられないのは確かだけれど」
令子は大塚を見て、声もなく笑った。
「心配?私があなたの目の届かない場所に行くのが。………何をするのかが」
見透かされている、と大塚は思った。ならば、もうひとつの感情も。
「………東京に来ませんか。以前話したように、私は現在都内に事務所を開いています。行く当てがなければ…私に住む場所と仕事を紹介させてください」
風が吹いた。重たげに白い花が揺れる。
彼女の黒い髪の上に、なだらかな肩の上に、はらはらと花びらが散った。
「罪悪感を持ち続けるのは辛いでしょう」
その言葉に、花びらを払い落とそうとしていた大塚の手が、止まった。
何の事だ、とは聞けなかった。
大塚は軽い疲れと焦りを覚え、止まった手を再び動かした。
滑らかな白い花びらが落ちて、今度は地面を飾る。
僅かに触れた令子の髪も肩も冷たく、肌に触れた訳でもないのに、大塚は後ろめたくなって顔を逸らした。
「返事は今すぐでなくてかまいません。今日は宿を予約していますから、ゆっくり休んでください。今、車をまわします」
背を向けた大塚に、今度は令子が声をかけた。
「大塚さん」
振り向いた大塚に、令子は艶やかに微笑む。
「私を1人にすれば、逃げ出すかもしれないわよ?」
大塚は真面目な表情で即答した。
「あなたはそんな人ではない。私から逃げても意味が無いから、あなたは逃げない」 
それを聞いた令子は、大塚に歩み寄り、彼の腕にするりと自分の腕を絡ませた。
慌てる大塚に、令子は囁く。
「今夜はこの7年間の事を教えてくださる?面談の時には話せなかった事も」
吸い込まれそうな令子の黒い瞳に、自分の姿が映る。
大塚は、自分が蜘蛛の糸に絡め取られたような、ゆるゆると蛇に締め付けられるような感覚に襲われた。
自分は自分なりの正義を守らなければならない。
止められるものならば、止めなければ。
だが大塚は、自分には令子を止める術が無いことを知っていた。
それならば、せめて彼女を見守っていよう。
最低限の犠牲で済むように。
再び令子が捕まった時に、今度こそ永遠に、檻の中に入れておく為に。




世間では、東京の連続殺人事件がマスコミを騒がせていた、春だった。



そして。
今年は急ぎ足で春が駆け抜けた東京で、彼は一斉に散って行く桜を病室の窓越しに見上げていた。
その手には、細いチェーンに通された、シルバーの指輪が握られている。
それは彼を残して逝った、婚約者の遺した物だった。
しかし今、彼の中には何の記憶も残されていない。
刑事である彼は、連続殺人事件の被疑者を追う過程で負傷し拉致され、翌日救出されたものの、数日前まで意識不明の重体と報じられていた。
薬の影響で朦朧としながら、彼は桜を見ていた。
「あなたが初めて歩いた時ね、桜が咲いていたの」
傍らで彼の母親は語り続ける。
それが本当に自分の母親なのか、記憶が粉々に砕けていて彼には分からない。
だから彼女はこうして彼に自分の記憶を、初めから話して聞かせているのだ。
それは彼に、暖かい感触を与えていた。
「桜にね、手を伸ばして…立ち上がって、あなたは歩いたのよ」
彼女は立ち上がって窓を開ける。
心地よい4月の風が彼の頬を撫でていった。
そしてその風が、また花びらを散らせる。
彼は恐ろしくなって、目を閉じようとした。
彼は春という季節があまり好きではなかった。
恐らく記憶を失う前からずっと。
桜が嫌いなわけではなかったと思う。
ただ、一斉に散って行く桜の花びらを見ていると、眼を閉じてしまえない、このまま死んでしまうのではないかという恐怖を感じるのだ。
薄紅の花びらの色は、滲んだ血液を思わせる。
母親の暖かな記憶とともに、それ以前から自分を蝕む得体の知れない物が、確かに存在しているのだ。
「………母さん」
聞こえない程度に彼は呟き、不意に訪れた心細さを意識から追い出した。
 




彼と彼女が出会うのは、それから8ヶ月後の事となる。
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